Chapter 16 映像の世界

わたしたちが普段生きている世界というのは独りで鑑賞している映像の世界だと何度も説明して来ました。
映像の世界という概念を理解するのが難しいのは、現実に肉体を持っているわたしたちだからです。
それなら肉体が死ねば何もなくなるのは当然であります。
それでは、魂は永遠に不滅で新しい肉体に再び宿って輪廻転生するという考え方をどう考えたらいいのでしょうか。
肉体がなくて、どんな形をしているのかわからないが、何か想うものがある。それが魂であると言うならば、その魂は何を想うのでしょうか。
自分以外のものがあるから何か想うのではないでしょうか。
サルトルが、「他人が地獄である」と言ったのは、他人の存在が想いの原点であると言っているのです。他人がいなければ、想う自分も無いわけです。
他人が、自分の想いを反射してくれる鏡になっているから、自分の想いの存在を自覚出来るのです。
わたしたちは自分の顔をどうして知ることができるのでしょうか。
鏡がなければ自分の顔は一生わからない筈です。
他人は、自分の顔を見ているからわかっているが、自分は見えないのです。
他人が、「あなたの目の形は大きく、青色で・・・」と説明されて、概ねわかったとしても、それで知ったことにはならない。
鏡に映っている自分の顔を見てはじめて知るわけです。
しかし鏡に映っているのは映像です。
結局の処、わたしたちが知っているということは、映像で知ったレベルであって、それは本当に知ったことにはならないのです。
知識だけでは本当に知ったことにはならないのも、結局は鏡を見た自分の顔と同じで、概ね知っただけであることを理解しておかなければなりません。
鏡が割れていたり、歪んだ鏡に映っている自分の顔が実体の顔と言えるでしょうか。
実際に割れた鏡や、歪んだ鏡で自分の顔を見て、顔が歪んでいても、それは鏡のせいだとわかります。
では、網膜というスクリーンが割れていたり、歪んでいたりすることを、わたしたちは認識しているのでしょうか。
現実に人によっては網膜が歪んでいることがあるのです。
また近くに焦点を合わせにくいレンズ、遠くに焦点を合わせにくいレンズのせいの場合もある。
網膜に映っている光景は、人によってみんな違うのに、外の光景は客観だと錯覚して生きているのが、わたしたちなのです。
みんな微妙に違っているのです。
それが独りで鑑賞している映像だと申し上げた根拠です。
自分の顔を写真で見たり、ビデオで見ると、イメージと微妙に違った顔が映っていることに気がついた経験がある筈です。
写真やビデオの中の顔が、他人から見た顔であり、イメージで想っているのが自分から見た顔であるのです。
あなたは、どちらを自分の顔だと思って生きているでしょうか。
自分の持っているイメージを自分の顔だと思って生きている筈です。
即ち、独りで鑑賞している映像の世界が、わたしたちが思っている現実の世界なのです。