Chapter 154 ただの善人

人生は心の持ち方次第であることを、わたしたちは頭ではわかっています。
つまり知識としては知っているわけです。
もっと専門的に言えば、大脳に記憶として蓄積されているのです。
頭ではわかっているのだが、いざ現実となるとそうはいかないのが、わたしたち凡人の悲しさであるのも事実です。
つまり知識は現実においては何の役にも立っていないわけです。
もっと専門的に言えば、大脳に記憶として蓄積されていても無用の長物になっているのです。
わたしたちが生きている現実の世界−所謂現実の世界−では、肉体に対する意識より想いに対する意識の方が普段は強いのです。
だから、魂の存在を信じがちになるのですが、これは苦しい時の神頼みのようなもので、いざ肉体に異変が起きるや否や想いに対する意識は一気に薄れてしまい、肉体に対する意識が浮かびあがってきます。
死に直面するということは、息を永遠に止めるか否かの決断を肉体がすることを言うのですが、その場面になると、普段はまったく意識していない息に対する意識が浮かびあがってきます。
そして浮かびあがった息に対する意識が消えることが死なのです。
死とはまさに肉体に対する意識の停止です。
死に際してわたしたち人間は、肉体に対する意識こそが自分であると確信するのですが、死ぬと意識が消えるから、それでお終いなので、記憶も糞もないわけです。
死は極限状態ですから、非常にわかりやすいのですが、死の向こう側に行くとあと戻りはできないので、わたしたち生きている人間には学習にならないのです。
それでは、極限状態ではない普段のわたしたちの中で、想いよりも肉体に対する意識を強くしてやれば、大脳に記憶されている知識を有用なものにすることができる筈です。
知識を有用なものにするには、知識を使うことです。
知識を使うということは、コンピュータで言えば記憶装置に蓄積されてあるデータを引っ張り出し、計算をするということです。
インターネットを使えるPC環境を持っていながら、それを使わずにワープロとメールしか利用していないあなたのようなものです。
一度インターネットを利用してみれば、こんなに便利なものがあったのかと新しい発見に驚きます。
今まで調べたいものがあれば、重たい辞典を引っ張り出していたのに、インターネットを利用すれば即座にわかるのです。
知識を持っているということは、これほど便利なことであるのを、わたしたちはわかっていないのは、使わないからに外なりません。
せっかく大脳に記憶されているのだから使うことです。
使うということは、大脳に記憶されたままに放置しておかないで、身体の外部記憶装置つまり各器官に移してやることです。
身体の外部記憶装置に移されたデータは、自動的に使われます。
つまりその器官が働きだすのです。
わたしたちが生きているということは、肉体の各器官が働いていることを−機能していることを−意味しているのです。
大脳の記憶装置に蓄積されているデータつまり知識を、肉体の各器官という外部記憶装置に移してやれば、その知識を現実の中で利用したことになるのです。
わたしたちが、わかっているのだが、なかなか現実はそうはいかないと思い込んでいる原因は、自分にあるわけです。
(1)人生はすべて良きことであると考えるか。
(2)人生はすべて悪しきことであると考えるか。
(3)人生は、良きこともあるし、悪しきこともあると考えるか。
わたしたちの人生観は突き詰めてみれば、この三つの選択であるのです。
一般の人間は、殆ど(3)を採用しているのですが、実は(3)は人生観ではなくて、経験則であるだけです。
経験則を人生観と勘違いしているところに最大の問題があるのです。
人生観とは己の生き方を決断することに外ならないのですから、実は(1)か(2)しか無いのです。
現に、わたしたちの人生観は必ず(1)か(2)であるのですが、(1)と(3)を複用したり、(2)と(3)を複用しておるから分裂症状に陥ってしまうのです。
(1)で生きる大善人になることを決断するか。
(2)で生きる大悪人になることを決断するか。
この二者択一しかないのに、わたしたちは、ただの善人でいようとする。
これがいけないのです。
ただの善人は、ただの悪人にすぐなるのです。
わかっているのだが、現実にはなかなかそうはいかないと思っている方は、ただの善人なのです。