Chapter 151 両性類・人間が生む悲劇

夢を観ている時に感じる幸福感と、所謂現実の世界を生きている時に感じる幸福感。
さて、わたしたちはどちらの方をより重要視しているでしょうか。
目が醒めている所謂現実の世界、つまり肉体の活動期間に、わたしたちが感じる幸福は、やはり肉体自身が感じるものが中心になります。
一方、眠っている夢の世界、つまり肉体は非活動で、想い(記憶)の活動期間に、わたしたちが感じる幸福は、想い(記憶)が感じるものが中心になります。
唯物的な人間と唯心的な人間の区分けは、想いを中心に生きている時と肉体を中心に生きている時の違いであって、唯物的な人間と唯心的な人間が別々に存在しているわけではないのです。
しかし、わたしたちはすぐに、「何て、あの人は唯物的な人間なのだ!」と言ったり、「あの人は唯心的な生気の無い人間だ!」とお互いに揶揄しているのですが、結局は自分を否定していることに気がついていないのです。
唯物的だけの人間はいないし、唯心的だけの人間もいないのであって、すべての人間が両面性を持っているのです。
想い(記憶)を中心にしている時が唯心的であり、肉体を中心にしている時が唯物的であるのです。
従って、目が醒めている状態を生きていると思っているわたしたちにとっては唯物的になっているのが基本だと言えるでしょう。
目が醒めている活動期間というのは、五感が活動しているということですから、五感で幸福と感じることが重要になってきます。
考えてみれば、わたしたちの幸福感、不幸感というのは、五感を通じての感覚であるのです。
他の生き物に比べて人間がセックスに四六時中関心を持つのは、目が醒めている肉体の活動期間において、五感の中でも特に触感が冴えているからです。
他の生き物は、交尾の時期というものがあり、その時期でない時は触感が鈍るために、セックスに対する関心が消滅してしまうのです。
記憶を知性に転化する能力を人間だけが具えているため、わたしたち人間だけは四六時中セックスに関心を持つ動物になったのです。
人間の性行為の源流が知性すなわち想像にある所以です。
従って、肉体が活発に活動している期間、つまり目が醒めている時が唯物的になるのは、わたしたち人間のごく当り前のことなのです。
また肉体が最低限の活動しかしていない期間、つまり眠っている時が唯心的になるのも、わたしたち人間にとって当り前のことで、その期間は四六時中観ている夢が特にはっきりとしている時なので、眠っている最中の夢では人間は唯心的になっているのです。
白昼夢の中でセックス行為が多いのは、肉体が活発であるが故なのです。
想像の中でセックスをしている、つまり性倒錯状態にあるのは、まさに白昼夢を観ている真最中なのです。
わたしたちが唯物的幸福に強い関心を持つのは、目が醒めている時が所謂現実の世界だと思っているからであって、ある意味では自然の想いであるのです。
それを、「何て、あの人は唯物的な人間なのだ!」と揶揄するのは、不自然なことです。
また、「あの人は唯心的な生気の無い人間だ!」と揶揄するのもおかしなことなのです。
一生、眠っているか、一生目が醒めているかでないと、唯物的だけな人間もいないし、唯心的だけの人間もいないのです。
ところが、お互いに揶揄しているのが、わたしたち人間であるのです。
これでは、分裂気味になるのも当然です。
人類史が不幸の連続であるのは、この分裂気味が為せる業なのです。
唯物的且つ唯心的であるわたしたちを認めることが大切なのであって、そういう意味では宗教が人類の悲劇を生んできたと言っても過言ではないでしょう。