Chapter 132 時間の観念

時間の観念にも変化があることをご存知でしょうか。
どういうことかと言いますと、たとえば、わたしたちにとって1時間の観念と2時間の観念は、単に1:2の違いと思っているなら、それは意識が醒めていないことの証であると言えます。
1時間の観念より2時間の観念の方が若干短くて、1:1.99といった具合なのです。
1時間と10時間では、1:9.9とますます短くなっていきます。
1日は24時間ですが、24時間の観念は1時間の観念に比べますと、1:23.8ぐらいになる。
1年は8766時間ですが、1年の観念は1時間の観念に比べますと、1:8680時間ぐらいになって、1年ではおよそ4日間の観念差が生じていきます。
一生80年としますと、およそ1ヶ月の違いがあるといった具合なのです。
わたしたちは1日1日の観念で生きています。
更に、1年1年の観念でも生きています。
更に一生の観念でも生きているのです。
しかし瞬間の観念では生きていないのです。
普段のわたしたちは、一生の観念で生きていると思っているだけなのです。
実際には、場合によって、1年の観念で生きていたり、1日の観念で生きていたり、時間の観念が変化しているのです。
余命30日と思っている人にとっては、1年は無用の観念なのです。
1日1日が非常に大事な時間になります。
しかし普段のわたしたちにとって一生の観念は1日でも1年でもなくただ一生なのです。
しかも一生とは何年なのか何日なのか具体的な観念がないのです。
わたしたちにとって死は絶対やってくることであるのに、死を意識せずに生きているのは一生の観念で生きているからに外なりません。
余命30日と宣告された途端に、1日の観念が生まれます。
そしていよいよ死と対面するその瞬間がやって来ますと、1日1日の観念さえ消え失せ、瞬間の観念しか持たなくなります。
その間に、1日の観念から1時間、1分、1秒の観念へと変わっていくかと申しますと、そうならないで、瞬間の観念に変わります。
このことに気づきますと、人生観は大きく変化するのです。
わたしたちは、遅かれ早かれ死と直面すると、時間の観念が瞬間へと収束していき、自から『今、ここ』を生きることができるようになっていくのです。
『今、ここ』をなかなか体験できないのは、死と直面していない証拠であるとも言えます。
それでは、わたしたちにとって死とは遠くかけ離れた出来事であるのかと言うと、そうではなく突然やって来るのです。
突然やって来るのが、死の本質なのです。
死は徐々にやっては来ません。
余命3日と言われても、死は突然やって来るのです。
突然やって来るものには準備ができません。
つまり死の覚悟ができていないのです。
死の恐怖の原点はここにあるのです。
覚悟さえ決めれば何も怖いものなど無いのです。
覚悟を決められないのは突然起こるからで、それは時間の観念が瞬間に無く、1日や1年や一生に有るからに外なりません。
わたしたちが一生を生きて行く中で、いろいろな恐怖に苛まれる。
それが四苦八苦の原因であるのですが、死と直面した途端に、そのような恐怖は雲散霧消してしまいます。
それは、瞬間の観念しか無くなるからです。
よく考えてみればわかることですが、わたしたちの不幸は突然やって来るものばかりです。
不幸の内容に問題があるのではなく、突然やって来るから不幸であるのであって、予め覚悟していたことがやって来てもそれは不幸にはなり得ないし、また覚悟さえしていれば、そのことはやって来ないものなのです。
ここに人生を透徹した生き方があるのです。
目が醒めた時のわたしたちの時間の観念はいろいろ変わるのですが、夢を観ている中では、瞬間の観念しか無いのです。
だから時間の観念が夢の中では無いのです。