Chapter 126 深淵(Abyss)は遍在する

人間の一生は生で始まり、死で終わります。
「オギャー」と生まれるのが生の始まりであり、息を引き取る死によって一生は終わるのですが、「オギャー」と泣いているのは悲しくて泣いているのではなく、息を始めたシグナルであるのです。
つまり、息を開始することで生が始まり、息を引き取ることで生が終わるのです。
従って、生命というのは息をすることに外ならないのです。
息をするということは、空気を吸うことと吐くことの繰り返しを言います。
そこで、前Chapterでお話した深淵(Abyss)について、もう少し堀下げてみたいと思います。
朝目が醒めた瞬間(とき)、夜眠りに就く瞬間(とき)が深淵(Abyss)だと申しました。
つまり、覚醒と眠りの狭間のニュートラルポイントだから深淵であるわけです。
わたしたちの肉体は、たとえ意識が眠っていても、覚醒と眠りを往復しているのです。
ただ、普段のわたしたちは意識を自分だと思っていて、肉体を自分だと思っていないので、覚醒と眠りの往復の意識が希薄になっています。
朝目が醒めた瞬間(とき)と、夜眠りに就く瞬間(とき)が、覚醒と眠りの往復の折り返し点であるのです。
往復の折り返し点のことを深淵(Abyss)と言うのです。
一生においての深淵(Abyss)は、息を始める「オギャー」であり、息を引き取る死であるのです。
一日においての深淵(Abyss)は、朝目が醒めた瞬間(とき)であり、夜眠りに就く瞬間(とき)であるのです。
そして毎瞬間においての深淵(Abyss)が、息を吸うことから吐くことへの折り返し点と、息を吐くことから吸うことへの折り返し点であるのです。
毎瞬間している息ですら、普段のわたしたちはまったく意識していません。
つまり眠っているのです。
普段のわたしたちは、毎瞬間を眠り続けているのですから、一日も一生も眠り続けているのは当然のことと言えます。
どうやら意識するということは、深淵(Abyss)を意識しているかどうかに掛かっているようです。
そして深淵(Abyss)とは、わたしたちの意識が、肉体と想いを往来する狭間を言うのです。
普段のわたしたちは想いを自己だと思っています。
つまり息をしていることを意識していない状態です。
しかし、肉体に異変が起きると、肉体を自己だと思うようになります。
つまり息をしていることを意識している状態です。
しかし一日24時間、息を意識して生きることは不可能なように思えます。
深淵(Abyss)は、つい忘却してしまい勝ちな肉体への意識に一瞥を与えてくれるとても大事な瞬間であるのです。
わたしたちは認識しているか否かに拘らず、息をしていることによって毎瞬間深淵(Abyss)に触れているのです。
それを知っているあなた。
それを知らないあなた。
その違いは、深淵(Abyss)の深さの差程あるのです。