Chapter 123 向かい合わせの生と死

わたしたち生きているものは、必ず死にます。
生きているから死ぬのです。
従って、生と死は二律背反ではないのです。
わたしの造語ですが、二律迎合であるのです。
つまり生と死は背中合わせではなくて、向かい合っているのです。
それなのに、わたしたちは死を避けようとします。
本来正面同士で向かい合っている関係なのに、背中合わせのつもりでいるのですから、厄介な事態になるのも当然です。
本人は背中合わせのつもりなのですが、実際には顔を付き合わせているのですから、お互いの顔は見え見えなのです。
死の立場からすれば、
「おい、お前の目は何処を見ているのだ?こっちをしっかり見ろ!」
と言いたくなります。
わたしたちの生は、
「お前みたいな厄病神の顔など見たくない!」
と言いたいのでしょう。
しかし、わたしたちの生と死は常に向かい合っているのですから、お互いに直視するしかないのです。
また向かい合っている生と死は、お互いに相手を映す鏡の役割を持っているので、生をしっかり見ようと思えば、死をしっかりと見るしかないし、死をしっかり見ようと思えば生をしっかり見るしか方法はないのです。
わたしたちは、自分の顔を直接見たことは生まれてこの方一度もありません。
人という鏡を介して見るか、実際の鏡を介して見るしか方法はありません。
生とは自分そのものであって、他人のものではありませんから、生そのものの顔を見ることはできません。
必ず他のものを介して見るしかないのです。
しかし、唯一他のものを介せずして見る方法がある。
それが、自己の死を介して見ることです。
しかし、わたしたちは死の経験をしたことがありません。
だから、自分のことがわからないで生きているのです。
死ねば自分のことがわかります。
しかし死んだら、何もかも消えてしまいます。
生こそが、『今、ここ』の自分を見せてくれます。
『今、ここ』こそが、生の自分を見せてくれます。
それでも、わたしたちは昨日を悔やみ、明日を心配して生きていくしかないのでしょうか。
それは、わたしたちひとりひとりが決めることです。