Chapter 111 意識すればすべてが可能

この作品のタイトルは、「夢の中の眠り」です。
「眠りの中の夢」なら理屈はわかるのですが、何故か「夢」と「眠り」がひっくり返っています。
わたしたちは、眠っている間に夢を観ていますが、夢の中で眠った経験はありません。
夢を観るには、先ず眠らなければならないと思っています。
それでは、眠っていない時は、わたしたちは完全に醒めた状態にあるかというと、そうでもなさそうです。
もちろん醒めた状態の定義にも拠りますが、わたしが主張している醒めた状態というのは、覚醒者のような醒めた状態を言っているのではなくて、眠っていない状態と考えて頂いたらいいでしょう。
つまり、眠ると意識がある程度消えます。
ある程度と言いましたのは、夢を観ている時は、明らかに意識があるわけですから、その間は意識は消えていないことになります。
それでは眠っている間も意識があるかというと、そうでもありません。
何故なら、時間の経過が、目が醒めている状態に比べて速いことでわかります。
睡眠時間を8時間採っている人が、醒めた状態の時の8時間と、時間の経過の速さの感覚を、比較すれば大きく違うわけです。
意識が消えている分だけ、時間の経過が速くなっているからです。
つまり8時間の睡眠時間の内、2時間がREM睡眠という夢を観ている浅い睡眠で意識があり、残りの6時間が熟睡していて意識が消えているとすると、8時間が2時間の感覚しかないのです。
楽しい人生を送っている人は、時間の経過が速く感じられます。
苦しい人生を送っている人は、時間の経過が遅く感じられます。
苦しさを少しでも忘れたい為に、眠ろうとするのは、眠ると時間の経過が速く感じられるからです。
もっと苦しさを忘れたいと思うと、もっとたくさんの眠りに就きたいと思うのは人情です。
そして永遠の眠りに就こうとします。
結局の処、意識が消えている間は、わたしたち人間は、何も考えていない状態にあるから、苦しさも味わわなくても済むと思っているのです。
しかし、何も考えないから、苦しさも無いとするのは、少し浅薄な考え方かもしれません。
わたしたちは、嫌なことがあると何も考えないようにすることはできます。
わたしたちは、嫌なことが起こる−厳密には湧いて来ると言った方が適切でしょう−ことを避けることはできません。
しかし、思考を停止することは、停止する長さの程度の問題はありますが、可能です。
1秒か2秒ぐらいなら、誰でも思考を停止することは可能です。
ではその1秒か2秒の間は、嫌なことから解放されているでしょうか。
決して解放されていません。
意識の深い処で、漠然と嫌な感じが残っています。ただ嫌なことの具体性が1秒か2秒の間だけ希薄になっているだけです。
即ち、何も考えないと、苦しさが消えるわけではないのです。
時間の経過を速く感じるか、遅く感じるかに、苦しさの多少の違いができるのです。
楽しい人生を送っている人は、時間の経過が速く感じられます。
苦しい人生を送っている人は、時間の経過が遅く感じられます。
ここに鍵がありそうです。
時間の経過を速く感じるには、熟睡をしている時のように、意識が消えていればいいわけです。
子供の頃は、眠りに就いたと思ったら、もう朝だったという経験が誰にもあります。
大人になればなるほど、眠りの間の時間を感じるようになります。
不眠症になりますと、眠りの時間の方が、目が醒めた時間よりも遅く感じるわけです。
そうしますと、夢を観ている時は意識が消えていないのですから、時間の経過を感じる筈なのですが、わたしたちが夢を観ている時は、時間の経過がまったくありません。
昨日のことが出て来たと思ったら、遠い未来のことが出て来る。
何百年も前の人物が出て来たと思ったら、会ったこともない人が出て来たりするのが夢で、時間の流れが、目が醒めている時とまるで違うのです。
実は、わたしたちが夢を観ているのは、夢を観ている中で眠っているからに外ならないのです。
だから時間の経過を感じないのです。
熟睡している時は、意識が消えて、時間の感覚も消えてしまっているのと同じであるわけです。
目が醒めている時でも、この状態にいることが出来れば、わたしたちを嫌なことから自由自在に自分自身を解放することが可能になります。
しかし意識が消えてしまえば、わたしたちは生きていくことが出来ないと思っています。
それは無意識な状態のことを言っているのです。
意識の無い意識、つまり無意識ではなくて、非意識とでも言えばいいのでしょうか。
非意識な状態であれば、わたしたちは生きていくことが出来ます。
その状態こそ、時間が停止した状態、『今、ここ』の状態に他ならないのです。
「不思量底思量 是即非思量」
無意識を意識すると、いつか自然に非意識になると言っているのであります。
意識して、『今、ここ』をいるように心がければ、いつか自然に、『今、ここ』にいるようになれるのです。