Chapter 110 生と死

死について考えてみたいと思います。
わたしたちの肉体には、ふたつの死があると申しました。
有機体としての死と、無機体としての死のふたつであります。
わたしたちが一般に死と思っているのは、有機体としての死であるのです。
もうひとつの無機体の死というのは、厳密には有機物質なのですが、身体という有機的働きを持つものに対して、単一機能という点において、無機体と言っておるのです。
この無機体の死というのは、瞬間毎に死と生の繰り返しをしておるのですから、常に直面している死と考えればいいでしょう。
わたしたちは、有機体としての肉体が死んだ時を以って死と考えているのですが、実は死と常に背中合わせで生きていることを自覚していないのです。
息ひとつをとってみても、死と生を繰り返しています。
息は吸うことと吐くことの繰り返しですが、吸うことは生を意味して、吐くことは死を意味しています。
息を吸うと酸素を中心とした空気が口や鼻、そして皮膚を通じて体内に入ってきます。
口や鼻から入った酸素は、肺を通って動脈の血液の中に入り、体の各器官へ送られることによって、運動することが出来るのです。
酸素の送られることが少しでも止ると、各器官は死んでしまいます。特に脳などは数分間の酸素欠乏で死んでしまいます。
従って、息を吸うことは、まさに生そのものであるのです。
一方、息を吐くということは、体の各器官に酸素を供給した際に炭酸ガスを中心に、各器官に溜まった老廃物が静脈の血液に入り、身体の外に吐き出されます。
従って、息を吐くということは、まさに死そのものであるのです。
身体の各細胞は、常に蘇生しているように、細胞は死と生を繰り返しているのです。
しかし、わたしたちは細胞の死と生を意識せずに生きています。
息を吸うと、緊張します。
息を吐くと、弛緩(リラックス)します。
ここに死と生を意識できるポイントがあるのです。
緊張した時、人間は自然に息を吐きます。これは緊張状態を弛緩状態にさせようとしているのです。
気を張り詰めようとした時、人間は自然に息を吸います。これは弛緩状態を緊張状態にさせようとしているのです。
体内から体外へ放出する行為はすべて緊張状態から弛緩状態にする為の動きであって、無機体の死の瞬間なのです。
わたしたちは死を恐れていると思っているのですが、実は憧れていると言った方が正しいでしょう。
自殺するのは、生きる苦しみから逃れる為に自殺しているのではないのです。
死への憧れが意識の中にあるのが原因であって、生きる苦しみはきっかけであるだけです。
生物は、常に緊張と弛緩の繰り返しによって生きていることを知っています。
人間だけが、緊張を避けて生きようとしますが、それは無理な話なのです。
振り子時計のバネのように、緊張したものは少しずつ弛緩していき、弛緩してしまうと再び緊張させることによって、振り子は永遠に動き続けることができるのです。
死への憧れは、弛緩(リラックス)状態への憧れであるのです。
生への執着は、緊張(生きがい)状態への憧れであるのです。
負夢は緊張状態から弛緩状態へ導く触媒で、その後には死が待っています。
正夢は弛緩状態から緊張状態へ導く触媒で、その後には生が待っています。
この死と生の繰り返しを意識することこそ、わたしたち人間の真骨頂であることを忘れてはならないのです。