Chapter 109 『今、ここ』にいる絶好の機会

『今、ここ』にいるには、『自分独りだけの世界』にいなければなりません。
すなわち、4階の席に座らなければならないのです。
わたしたち、肉体即ち三次元立体を有するモノにとって、4階の席にずっと座っていることは不可能であります。
どうしても3階という三次元空間にいるわけですから、3階の席にも座らなければならないのです。
肉体が境界線を失ったら、即ち死んだら、3階の席に座る必要はありませんが、死なない限り、3階の席から舞台を観なければならないのです。
3階から舞台を観ることが出来れば、何も問題はないのですが、残念ながら3階からは舞台は見えず、背景画面だけが見えるから、話は複雑になるのです。
その原因は、結局の処、四次元時空間こそが、わたしたちが存在している世界であって、四次元要因の時間に支配されているからです。
早い話が、わたしたちが、『今、ここ』にいることができたら、つまり過去や未来に想いを馳せることがなかったら、四次元などとややこしいことを考えなくて済むのです。
他の生物は、常に、『今、ここ』を生きていて、明日のことを思い悩んだりしません。
従って、四次元という概念は、時間の概念を持つ唯一の生き物である人間だけの観念の世界であるとも言えます。
しかし、わたしたちが住んでいる宇宙を考えてみますと、常に運動しています。
運動をするということは、ある場所から別の場所に移動することを意味します。
ある場所から別の場所に移動するということは、現在から未来への移動でもあるのです。
瞬時に移動することは出来ないのです。
光ですら、30万km移動するのには、現在から1秒先の未来に移動しているわけです。
太陽の光が地球に到達するには、およそ8分掛かります。
ということは、8分前という過去に太陽を出発した光を、わたしたち地球上にいるものは現在に見ているのです。
即ち、場所の違いによって、時の違いが生じている。
それが時間の概念であるわけです。
運動している限り、時間の概念が影のようについてまわる世界が、わたしたちが住んでいる宇宙なのです。
三次元までは実在の世界。
そこに時間という概念ができたのは、わたしたちも含めてすべてのものが運動している、つまり変化しているからに外なりません。
従って、わたしたちは有限の世界に生きているのであって、無限の世界とは無縁なのです。
それが、意識の境界線とわたしが言っている所以であります。
わたしたちの肉体は、生きている限り、ずっと動き続けていますが、死がやって来ると、すべての動きを停止させます。
すると突然、肉体が消滅していき、自分の肉体という境界線が失われていくことによって、動きが停止してしまいます。
しかしその動きの停止は、自分という意識があるから、固有の肉体が消滅することで、自分という他との区分け意識も消滅する結果なのです。
全体に帰するという観点では、動きは停止していないのです。
従って、全体にとっては無限に運動は続けているのですが、固有のものにとっては、運動は停止するのです。
運動する世界、変化する世界、の宿命とでも言うのでしょうか、時間という影がつきまとう世界に、わたしたちは生きているのです。
有限の世界の中を無限に運動している−これを円回帰運動と言う−わたしたちの宇宙の中で、わたしたちは有限の動きをしているのです。
その結果、時間の概念が生まれ、三次元空間だけでいいものを、そこに観念である時間が加わった四次元時空間なるものが現れたのです。
すべてが静止している世界であれば、時間の概念など無用です。
では、夢の世界には、時間の観念があるでしょうか。
夢の世界でも、わたしたちは動いていることは確かですから、必ず時間の観念がある筈です。
しかし、目が醒めている状態の時のような時間の観念が、夢の中であるように思われません。
その理由は、わたしたちは、夢の世界では、独りの世界を生きていることを、強く認識しているからです。
夢の中で登場してくる自分以外のものは、鑑賞者である自分とは明らかに違う場所にいると思っているからです。
自分も夢の中の世界で一嬉一憂しているのですが、自分の姿は何処にも見えません。
何故なら、自分はその夢という映画の鑑賞者であるのですから、自分の姿を映像の中に見出すことは不可能なのです。
テレビや映画を見て一嬉一憂しているあなたの姿を、画面の中に見ることが出来ますか?
そうです、夢の世界は、あなた独りだけの世界なのです。
だから、『今、ここ』の一瞥を得る絶好の機会なのです。