Chapter 108 間違いだらけの人類の歴史

ルールを犯すから、またルールをつくる。
わたしたち人間社会はこの繰り返しをしてきたのですが、結果20世紀は人類史上最も血腥い時代であったのです。
第一次及び第二次世界大戦で1億以上の人間が死ぬような惨事は、歴史上比類無き出来事であったのです。
そのことに対する学習能力の無い人類は、いまだに戦争をしておるのです。
戦争をする彼らの決まり文句が、「正義の為」であり、時には神の名前まで持ち出して「聖戦」と宣うわけです。
彼らの神は、「殺せ!殺せ!」と叫ぶようです。
宗教戦争という言葉があるくらい、宗教というものは余ほど殺し合いが好きなようです。
好からぬ輩が世の中を乱すことは、いつの時代でもある。
彼らを取り締まる為には正義が為されなければならない。
正義を為すには、正義の物差しが要る。
正義の物差しが、性悪説では法律であり、性善説では道徳・宗教・神になるわけです。
好からぬ輩がいなければ、法律も道徳も要らないわけで、そうすると宗教も神も必要なくなるのです。
しかし、この論法は動物の世界にもよく似た形態としてあります。
動物の世界では、必ずボスが存在します。
ボスの定義は、外敵からの危機に際し、グループの先頭に立って、命を張ることで、それがボスの義務であり責任である。
一方グループにおける子孫保存欲−食欲および性欲−を最初に満たすことが出来る権利を有するのがボスであるのです。
聖書における支配者と奴隷の定義にも、この動物の世界の強者(ボス)と弱者の関係に酷似した戒めがあります。
しかし動物の世界と決定的な違いがあります。
動物の世界での強者は決して弱者をいじめたり、搾取したりしないのが絶対的な掟であるのに、強者が弱者から奪う行為をしてきたのが人間社会の歴史であったのです。
つまり、動物の世界のボスの定義を人間は守っていないのですから、聖書の戒めは、人間社会の箍にはなっていないのです。
わたしが、もういい加減目を醒ますべきだと申しているのは、政治的発言つまり形而下学的な意味合いではなく、人間の意識の問題つまり形而上学的な意味合いで言っているのです。
動物は教えられなくても、自然の掟としてボスのあるべき姿をきっちり守っておるのです。
人間は教えられても、自然の掟としてボスのあるべき姿を守っていないどころか、人間がつくった法律、道徳観すらボス自ら破っておるのです。
このような不条理な社会は、人間社会以外には決してありません。
法律を遵守させる為に監視するのが国家権力の下の公安、警察つまり役人の使命であり、道徳を守らせるのが、宗教、学校の使命であるのです。
だから彼らの職業は聖なる職であったのです。
しかし、彼らを尊敬に値する聖職者として認めることは到底できないところまで、わたしたち人間社会は矛盾に満ちたものになってしまったのです。
法律を守らせる職業に就いている人間が法律を破り、道徳を教える職業に就いている人間が道徳を無視した行為をする社会が、わたしたち人間社会であるのです。
結局の処、物差しが間違っていたのです。
この問題は、現代社会の問題ではなく、人間社会の歴史を通じての根本的問題に帰さなければなりません。
聖書が書かれたのが、紀元前3、4世紀だと言われています。
従って、少なくとも二千数百年間、わたしたち人間社会−西洋キリスト教世界のみならず東洋世界にも言える−は自然の掟のみならず、自分たちの掟すら守ることが出来ないで来たのであって、その根本原因は、正しい物差しがなかったからです。
今からでも遅くない。
人間社会に適った物差しを創造しなければなりません。
それは憲法でも法律でも宗教でも神でもない物差しです。
しかし原点に、自然の掟が厳然と在ることだけは忘れてはなりません。
その新しい物差しは、実は、わたしたちが生きている所謂現実の世界には無いが、もうひとつの夢の世界には既にあるかもしれません。
精神を眠らせていては、所謂現実の世界と夢の世界すら区分けできません。