Chapter 105 予知可能な未だ来ぬ世界

わたしたちは、毎瞬間生死を繰り返している。
しかし、80年あまりを生きて、そして死があると考えているわたしたち。
この死生観の違いは、当然生き様の違いとして表れてくるでしょう。
どちらの死生観も実は同じ根であるのですが、80年あまりを生きてそして死ぬと考えているわたしたちは、真摯にそう思っていない処に問題があるのです。
わたしたち人間は、都合のいい生き物のようです。
あれだけ未だ来ぬ未来のことで、いろいろ思い悩んでいるわたしであるのに、死だけは真剣に思い悩んでいないのです。
いろいろ思い悩んでいることは、確実にやって来るかわからないのに、思い悩んで生きている。
死は100%確実にやって来ることがわかっているのに、それほど思い悩まないで生きている。
その理由は、実現の確実性にあります。
実現することが100%確実であることには、わたしたちは深刻にならないようです。
実現することが、定かでないと余計不安に思って悩むようです。
ここに、考える人間の哀しさを感じるのです。
肝を据えたら、たとえ死でも堂々と受け入れることのできるように、わたしたち人間はできているようです。
わたしたちが生きていく中での不安、恐怖、悩みの原因のすべて、予知可能な未だ来ぬ出来事に対する不安感がその正体であるのです。
死は確実にやって来るのに、普段はそれほど深刻にならないわたしたちですが、重い病気になると、死の恐怖で怯えます。
死が、予知可能な未だ来ぬ出来事になったからです。
健康な人は、相当年配になっても、死が予知可能になっていないと、死を深刻に受け留めないようです。
ここに、わたしたちの、目に見えない未だ来ぬ出来事に対する不安、恐怖、悩みの実体があるのです。
その実体は、結局の処、自己の記憶にあるのです。
今までの経験則で蓄積した記憶が、未だ来ぬ出来事なのに、予知可能にしているのです。
この予知可能な未だ来ぬレベルに陥ったら、わたしたち人間は、深刻に思い悩むようになるのですが、これも通り過ぎれば解消するものであるわけです。
即ち、予知と未来の組み合わせの中に、わたしたちが深刻に思い悩むスポットがあるのです。
それは台風や、渦のメカニズムに似ているようです。
普段渦の外にいると、渦の嵐に巻き込まれないから穏やかにいることが出来るのですが、一旦渦の中に入ると、中心に向かえば向かうほど、ますます激しい嵐に見舞われます。
しかし、渦の中心に入ると、突然嵐は止み、静寂の世界になります。
わたしたちの悩みは台風のようなものなのです。
台風に巻き込まれない時は、穏やかでいることができる。
台風が近づいて来ると、だんだん穏やかでなくなって来る。
台風の中に入ると、暴風雨に見舞われ不安で一杯になって来る。
そして台風の真只中にある中心に入ると、突然静寂がやって来る。
しかし、わたしたちは、台風の渦の中でぐずぐずじたばたしているから一向に中心に入ることができない。
台風に自分を同化させておるのです。
まさに背景画面の中に自分を同化させている、「私」の存在がそこにあるのです。
台風の中に身を任せれば、必ず静寂の中心に向かうのです。
ぐずぐずじたばたする自分の心の姿勢に問題があることがわかってきます。
何故わかっていながら、ぐずぐずじたばたするのでしょうか。
それは時間に支配されているからです。
時がやって来ないと、事は起こらないのです。
わたしたちが出来ることは、時が止っている場に居ることしか出来ないのです。
そこは、予知可能な未だ来ぬ世界ではなく、既知の既に起こっている世界なのです。