Chapter 104 死とはグローバリゼーション

「わたし」を知り、「わたし」だけを見ることができるのは死ぬ時だと申しました。
それは、肉体としての死を意味するわけですが、わたしたち人間には、二つの死があることを忘れてはなりません。
わたしたち凡夫は、死と言えば、心臓が止り、脳の機能が停止する肉体の死だけだと思っています。
しかしながら、所謂現実の世界と、実在の二つの世界を生きているわたしたちですから、二つの世界との別れ、つまり二つの死が当然あって然るべきであります。
先ず、肉体の死。
これは誰もが認めているものですが、肉体が死ぬということは、「わたし」も「私」も死ぬということに外なりません。
肉体の死とは個としての存在がなくなることで、それこそ肉体を構成しているものが、個から全体に溶け込んでいく過程であるのです。
全体からすれば、何も変わらないで位相の変化だけであるのですから、死ではありません。
死体を焼いたら、灰と骨という位相に変化し、それらは結局は地球に戻っていくだけで、大気と何ら境界の無い全体の世界に戻っていくのです。
死とは、肉体が境界線を失うことを意味しているのです。
もう一つの死とは、「私」の存在が消えることです。
肉体の死によって、「私」の存在も消えるわけですから、肉体の死は二つの死を意味しているのですが、「私」の死は肉体が死ななくても、可能なのです。
「私」の存在は、本質的には、「わたし」の存在と二律背反の関係にあります。
従って、「わたし」が生きておれば、「私」の存在など在り得ないのです。
ところが、普段のわたしたちは、「私」に命の息吹を与えているのです。
したがって、わたしたちは自覚していないけれど、本当の「わたし」を抹殺しているわけです。
肉体の死によって、「私」が死にます。
その瞬間(とき)が、「わたし」が蘇える機会です。
しかし、この瞬間(とき)蘇える、「わたし」は個としても意識がある、「わたし」ではなく、全体の中に溶け込んでいく、「わたし」なのですが、その過程で、個の、「わたし」を通っていきます。
その一瞥を経験することができるのです。
しかし、わたしたちは、自分に肉体の死を待たずして、「私」の死を迎えることが可能であるのです。
それは、3階と5階の席を日々往来する際に、4階にも立ち寄って席に座ることです。
それだけのことで、「私」は死ぬのです。
肉体の死は1回だけのものではないことを、以前にお話しました。
有機的機能を失うという意味では1回ですが、肉体の部分では、毎瞬間、生と死は繰り返しているのです。
細胞などは病気にならなくても、およそ1ヶ月ごとに死と生を繰り返しているのです。
従って、「私」も毎瞬間、生と死を繰り返すのが基本なのです。
それが、3階と5階を往復する途中で、4階に立ち寄ることなのです。
それを、わたしたちはしないで生きているのですから、本当に生きているとは言えないのです。
本当に生きているということは、生と死を毎瞬間繰り返すことなのです。
前述しましたように、死とは肉体が境界線を失うことですが、実は意識の境界線も失うことを意味しているのです。
そして、肉体も意識も、毎瞬間、生と死を繰り返すことによって、その境界線を失っていることを、わたしたちは自覚しないで生きている。
わたしたち人類は、境界線を以って生きています。
それをナショナリゼーションと言います。
わたしたち人類がナショナリズムに執着する限り、戦争は絶えません。
ナショナリズムからグローバリズムになってはじめて争いがなくなります。
死は、グローバリズムに目覚めさせてくれます。
真に生きるとは、グローバリゼーションの世界に生きることであるのに、わたしたちはいろいろな境界線をつくった世界に生きています。
こんなわたしたちの生き様を、「夢の中の眠り」と言うのです。