Chapter 103 自己主観視それは死

自分のことを恰も他人の如く見ることを自己客観視というのですが、これが4階の席に座って舞台と背景画面を鑑賞している本当の、「わたし」がしていることであるのです。
舞台で演じている自分は、「わたし」が演出し、演じている自分であります。つまり、『今、ここ』に存在する個としての自分であるのです。
4階の席で鑑賞している、「わたし」は全体の中に溶け込んだ自分であるわけですから、最早個としての区分けはないのです。
また背景画面に映し出されている自分は、所謂現実の世界で生きていると勘違いしている、複数の、「私」であるのです。
自己客観視とは、全体の中に溶け込んでいる4階の席に座っている、「わたし」が、背景画面に映っている、「私」を鑑賞していることに外なりません。
一方、舞台で演出し、演じている自分は、全体の中に溶け込んでいる、「わたし」に対して、個としての、「わたし」であるのです。
従って、全体の、「わたし」から個の、「わたし」を鑑賞しているのですから、これは自己主観視であります。
4階の席に座り、全体の中に溶け込んでいる、「わたし」が、背景画面に映し出されている、「私」を鑑賞することが自己客観視。
4階の席に座り、全体の中に溶け込んでいる、「わたし」が、実舞台で演出し、演じている個の、「わたし」を鑑賞することが自己主観視。
従って、先ず4階の席に座る全体の中に溶け込む、本当の自分である、「わたし」を自覚しない限り、自己客観視も自己主観視もできないことは明白であります。
しかし残念ながら、わたしたちは、背景画面に映し出されている、「私」、しかもそれは複数の、「私」を外ならぬ自分だと思い込んでいるのですから、自己主観視どころか、自己客観視も出来ないのです。
わたしが以前飛行機の中で、自己客観視することによって、ぎっくり腰を治したことがあります。
タイのバンコクからサウジアラビアのジェッダに向かう飛行機の中で起こったことですが、飛行機に乗る前に急にぎっくり腰になり、そのまま飛行機に乗り込んだのです。
飛行機の中で七転八倒して我慢の限界に来ておった時、ふと思い出したのが、自己客観視のことだったのです。
わたしの席は3Cという処でしたが、わたしを客観視する為に、別のわたしが前の空いている1Dという席に座ったのです(もちろんイメージだけの話です)。
そして痛みで苦しんでいる3Cの席のわたしを、恰も他人の如く観察したのです。
およそ2時間続けることによって、ぎっくり腰の痛みはなくなりました。
わたしは感激しました。
実は、1Dの席に座って3Cの席のわたしを観察していたのが、全体の中に溶け込んだ、本当の、「わたし」であったのです。
全体の中に溶け込んでいるのだから、時空の世界を超えているわけです。
わたしたちが生きている、所謂現実の世界のことなど、それこそ幻想の世界であるので、時空を超えた実在の世界からすれば、ぎっくり腰で苦しんでいる個の映像を変えることなど、いとも簡単なことであるのです。
Chapter102でお話した、高速道路を走っていた時に起こったことも、全体の中に溶け込んだ、本当の、「わたし」から、背景画面に映っている、「私」を鑑賞していたわけです。
色即是空とは、全体の中に溶け込んでいる、「わたし」が、背景画面の、「私」を鑑賞する、自己客観視のことを示唆しているのであります。
もちろん、「私」が色であり、「わたし」が空です。
空即是色とは、全体の中に溶け込んでいる、「わたし」が、舞台の、個としての、「わたし」を鑑賞する、自己主観視のことを示唆しているのであります。
自己主観視出来る為には、自分が生きている世界は、自分独りだけしか実在しないことを自覚出来なければなりません。
『今、ここ』にいることが出来れば、自己客観視は可能です。
『今、ここ』にいる世界が自分独りだけの世界であることを体験出来れば、自己主観視は可能であり、それは誰でも出来ることです。
それは、わたしたちが死んだ時です。