Chapter 102 自己客観視が鍵

『今、ここ』を生きることは、簡単なようでなかなか容易ではありません。
それは、時間というものが止らずに流れている(動いている)からです。
『祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり・・・』
と平家物語で語られるように、すべては流れているが故に、この瞬間に立ち止ることが難しいのです。
しかし、わたしたちが寄って立つ居場所は外でもない、『今、ここ』しか無いことも厳然たる事実であります。
『明日、どこか』には、明日にならないといることが出来ないのです。
電車の中に乗っていると電車が走っていることを感じないのと同じで、わたしたちは時間という列車に乗っているが故に、時間の動きに支配されているにも拘らず、時間の動きを感じることができないでいるのです。
しかし、時間は確実に動いているのです。
動いているのに、止っていると感じているのです。
逆に、列車の窓外に見える景色は、実際には止っているのに、動いているように見えるのです。
わたしたちの世界は、この原理と同じように見えているのです。
つまり動いているのは、自分であるのに、自分は止っていると感じ、自分のいる世界が動いているように感じているのですが、実は逆であるのです。
それなら、どうしてわたしたちは、時間が止っている感覚になれないのでしょうか。
その理由は外の景色を見ているからです。
窓のカーテンを閉めて、外の景色が列車の走っている方向と逆の方に走っているのが見えなければ、わたしたちはいくら時速300kmで走っている列車の中にいても、完全に静止している感覚でおれるのです。
結局の処、わたしたちが、『今、ここ』にいる感覚を持てないのは、時間という列車の窓から、外の景色を見ているからです。
わたしたちにとって、すべてのものが相対的な関係にあるというアインシュタインの理論は、単なる物理学の世界や宇宙天文学の世界だけの話ではないのです。
わたしたちの存在そのものに関わる重要な理論なのです。
またニュートンの慣性の法則が、アインシュタインの相対性理論と絡まっているわけです。
つまり、わたしたちの世界は、自己と一緒に運動する世界しか無いということで、それ以外の世界はすべて相対的であるということであります。
自分が乗っている列車は、列車と自分が一体になって走っているので慣性の法則を共有する世界である。
一方、窓外の景色は、走っている列車やその中にいる自分とは、相対的な関係にはあるが、慣性の法則を共有していない世界であるわけです。
『今、ここ』にいる感覚を得るには、慣性の法則を共有する世界だけに没入することです。
わたしが、自動車に乗って運転しているとします。
そうしますと、わたしの、『今、ここ』の世界は、わたしと一緒に走っている自動車の中なのです。
しかし、わたしは外の景色を見て運転しないと事故を起こしてしまいますから、外の景色を見ないわけにはいかないのです。
だから、『今、ここ』にいる感覚を持つことが難しいのです。
しかし、わたしが運転しないで同乗者としていれば、外の景色を見る必要はありません。
運転しながらにして、運転しない感覚でいることが重要であることが、だんだんわかりかけてきました。
わたしは28才の時に、高速道路を運転している中で、この感覚を経験したことがあります。
5分ほどでしたが、あとから考えてみれば、その5分間の出来事はまったく記憶にないのですが、安全に運転をしていたのです。
外の景色と、自動車と、自動者を運転している自分が、一体になっていたのです。
色即是空、空即是色の世界であったのですが、これこそまさに、『今、ここ』に、精神も肉体もいた瞬間だったのです。
その為には、自己を客観視することが鍵となります。
運転手でありながら、運転手を眺めている自分になることです。
時間の流れに支配されて生きているわたしたちにとって、自己を客観視することが、唯一時間と対等になり、時間という乗り物に同乗者として乗れる方法なのです。