Chapter 101 桜の想い

現代は余りにも喧騒な世の中であるが故に、人間のみならず、生き物すべてが神経症に陥っているように思えてなりません。
今年の桜満開のシーズンに、近くの樹齢数百年の桜の大木数本が、その華やかな姿を見せないので、どうしたのかと心配していましたら、怪しからん輩が、木の幹に穴をあけて除草薬を注入したらしく、すべて死んでしまったのです。
見るも無残な姿で、太い幹から枝まで焼け焦げたように真っ黒になっているのです。
「この恨みは忘れないぞ!」
と叫んでいるようです。
現代社会の世相を端的に表わしているように思うのはわたしだけでしょうか。
わたしは、毎朝散歩をするのですが、道を歩く人々の顔の表情は、苦渋に満ちたものばかりで、嫌な夢を観て、それを引き摺ったまま目を醒まし、行きたくもない勤め先に向かっている姿のように思えて仕方がありません。
この日本という国全体が病んでいるように思えるのです。
それはひとりひとりの人間が病んでいることに外ならないのではないでしょうか。
肉体的にも、精神的にも、現代社会は病んでいて、その原因はすべて喧騒から来る、目に見えない不安であると考えられます。
世の中が余りにも騒々しいのは、マスコミが垂れ流す低劣な情報が最大の原因になっているのですが、それによって冒されたわたしたちの脳は更に、携帯電話という現代が生んだ化け物に汚染されて完全に末期癌症状を呈しているようです。
結局の処、Chapter100でお話しましたように、わたしたちひとりひとりが、ただ茫漠と生きているからでしょう。
自分の生きている世界が、現実なのか−実在するという意味ですが−夢なのか、それとも夢のまた夢の世界なのか、まったく認識しないで生きておるのです。
だから、朝眠りから目が醒めても、眠りの状態を引き摺ってしまっているわけです。
この症状が一番端的に表れているのが、葬式に参列している人たちの表情でしょう。
身内に不幸があって、泣き悲しんでおるのですが、芯から悲しんでいないのです。
またそのことを本人も自覚していないのです。
そういう人間は、身内の不幸も、「喉もと過ぎれば熱さ忘れる」で、1週間もしない内に、遺産問題で内輪揉めしておるのです。
だから泣くことが出来るのでしょう。
人間、芯から悲しい時には、人前で泣くようなことはできないのです。
悲しいという感情は、その字の如く、心に非らずの状態であるのです。
泣くという生理現象は浄化作用であって、内なる想いを外側に吐出することによって、痛みを軽減させる働きなのです。
つまり、自分を守る為に、他人や他のものに苦痛をなすりつけておることに外ならないのであります。
桜の木を枯らした輩も、多分同じ心情だったのでしょう。
人の死を本当に悼んでいるなら、自己の内にその想いを包含させる筈です。
人前で泣くことは、他人と感動を分かち合う時のみのものです。
「女の涙は、信用できない」
と男は言います。
「男の涙は、女の涙以上に信用できない」
とわたしは思います。
外側に自己の想いを吐出することは、害毒を蒔き散らしている行為に外なりません。
そして結局、自分もその毒に冒されてしまうのです。
毒ヘビは毒を内に包含している限りは、毒に冒されることはありませんが、外に吐き出したら、他のものも、自分も冒されてしまうのです。
現代人は、みんな自己の内に持つ感情という毒を吐き出してしまっているのです。
またそのことを自覚していないのです。
お互いに毒を吐き合っていながら、相手のことを慮っているようなポーズをとっておるのですから、社会全体が悪循環に陥るのは当然の成り行きです。
その原因は、意識が眠っておるからで、現実の世界と夢の世界の区分けも出来ないで生きておる処にあるのです。
枯れて死んでしまった桜の木は、無言で何かを訴えているようです。
その心情を慮ることが出来る、わたしたち人間でなければなりません。