アメリカの経済攻撃−(2)バブル破裂

1987年2月22日に、G7がフランスのパリ郊外のルーブル宮殿で開かれ、「ルーブル合意」が発表されました。
会議の主題は、冷戦によるソビエト連邦との軍拡競争がアメリカの経済力を衰退させ、世界の基軸通貨である米ドルの価値が低下していることを西側先進各国が心配して、開かれたものです。
日本とドイツのアメリカに対する輸出増加を抑制し、両国の「内需拡大」を政府主導で推進することが決められた。
アメリカの財政赤字(当時:年間平均2000億ドル、26兆円)と貿易赤字(当時:年間1000億ドル、13兆円)の“双子の赤字”は危機的状態にまで達していた。
レーガン大統領は、この“双子の赤字”を何とかしようという気はまるでなかったようで、当時のアメリカは、財政赤字は放置し、米ドルはたれ流し状態の破産寸前であり、国内の失業率も12%を超えていた状態でした。
ポール・ボルカーFRB(連邦準備制度理事会)議長が、10%を超す公定歩合の高金利政策を執拗に取り続けた結果、インフレ率は落ち着いて来たが、景気は依然低迷してアメリカの国民生活はどん底のような状態でした。
若い世代のアメリカ人たちは、親の世代が買えたような大きな家をもはや買えなくなっていました。
アメリカの銀行は巨額の不良債権問題を抱えていました。
ファースト・シカゴ銀行がブラジルの通貨金融危機をきっかけに倒産。
大銀行や大企業が合併と吸収の激しいつぶし合い、乗っ取り合い合戦を繰り広げたのもこの時期です。
日本の「住専問題」とまったく同じ金融業界のトラブルがアメリカで起きたのもこの時期です。
1996年、日本。
「住宅金融専門会社八社」と呼ばれる、都市銀行や地方銀行のトンネル会社として作られた「ノンバンク」の一種が、合計15兆円の不良債権を抱えて大騒ぎになり、農協系「ノンバンク」だけを救済するために6850億円の税金(公的資金)が投入されました。
「住専問題」が日本で騒がれるよりも5年早く、アメリカでは、S&L(貯蓄貸付組合)の金融危機が襲っていました。
住宅ローン専門金融会社は、信用金庫と住宅金融公庫の中間のような小さな金融機関で、この「貯蓄貸付組合」が全米各地で一斉に倒産したのです。
全米に3000もあったS&Lが一気に2000近く倒産、若しくは、他に吸収される事態が起こったのです。
1987年10月19日の「ブラック・マンデー」のニューヨーク株式大暴落が引き金になったのです。
住宅ローン金利と資金運用利率に大きな逆ザヤが生じ、中小金融機関の経営が破綻していった。
アメリカ連邦政府は、この金融危機を回避するために1000億ドル(13兆円)の公的資金を投入したのです。
日本政府の大銀行救済資金も偶然か同じ13兆円でした。
アメリカの日本に対する「為替」と「金利」の第二次攻撃は、1990年1月の東証の株価の大暴落で始まりました。
日本の株式を「外人買い」の形で買い集め、株価を異様な高さにまで吊り上げておいてから、自分たちだけ売り逃げ、その直後の大暴落で日本人投資家に大損害を与えたのです。
モルガン・スタンレー、ソロモン・ブラザース、メリル・リンチ、ロバート・ルービン財務長官が会長を務めていたゴールドマン・サックスが演じたのです。
これらアメリカの大手の金融法人は、政府と連携して日本の弱点を研究し続けていたのです。
アメリカは、官民一体で日本を研究した。
経済協議で言う事を聞こうとしない日本に対して、ついに「金融」という部門に的を絞って攻撃をかけてみると、ものの見事に日本は音を立てて崩れはじめたのです。
あれほど強靭な抵抗力を示した日本が一気に総崩れを始めたのです。
30年間の日本研究・分析と試行錯誤を繰り返した末についに命中したのです。
日本の証券・保険・金融・特殊法人を個別に攻撃を仕掛けたら、つぎからつぎにガタガタになったのです。
半導体やコンピュータや自動車産業界にあれほど圧力をかけても、ビクともしなかったのに、金融部門に仕掛けたら崩れ始めたのです。
日本の最大の弱点は、官僚統制による金融システムの過保護行政にあったのです。
言い換えれば、日本の金融機関は大蔵省(財務省)の単なる出張所に過ぎなかったのです。
アメリカによる「為替」と「金利」の第二次攻撃は、日本の株価が大きく崩れ、地価が暴落する事態をよりいっそう促進させるべく、更に1990年から93年にかけて、着実に実行に移されたのです。