アメリカの経済攻撃−(1)プラザ合意

アメリカからの日本に対する「超低金利」と「超円高」の二段構えの四波(四次)にわたる波状攻撃について説明しましょう。
1979年に「第二次オイルショック」が起きて、それまで年率3%だった日銀の公定歩合が、80年には9%にまで急騰しました。
1980年と1981年のアメリカで、公定歩合が12%台という高さを示したことにつられた動きが、日本の高金利に繋がったわけです。
レーガン政権が1981年に登場する直前のアメリカ経済が、ベトナム戦争の出費の後遺症で、強烈なインフレ状態だったことを示しています。
イラン・イラク戦争勃発の煽りを受けて起こった「第二次オイルショック」は、原油価格を1バレル30ドルまではね上げて先進諸国を直撃しました。
石油代金を十分に支払うだけの輸出産業を持たないヨーロッパの中小の国々が歴史的没落を始めたのは、この時であります。
スウェーデンの高福祉国家理念は、このときから揺らぎはじめました。
オランダやデンマークなどの農業国は石油代金に圧迫されて、それまでの豊かなヨーロッパ都市文明を築いていた国民の高い生活水準が、このときから次第に低下してゆきます。
日本の産業界は、この状況下、高度の石油エネルギー消費削減技術化を達成して、石油輸入量を3割も減らすことに成功して、危機を乗り切って行ったのです。
その後も旺盛であった日本の輸出で、貿易黒字が大きく溜りだした。
外貨準備高はこの頃から常に1000億ドルを超えるようになり、公定歩合は、その後なだらかに下がりはじめ、1984年には遂に5%になったが、依然、第二次オイルショックによる不況が続いていたので、この5%の金利は86年まで続くことになります。
1971年8月のニクソン・ショック(ドル・ショック)で、1ドル360円が300円になり、やがて250円になった為替は、1985年までは1ドル240円台で小康状態を保っていました。
ところが1985年9月22日のいわゆる「プラザ合意」をきっかけに大きく動き出しました。
ニューヨークのプラザホテルでG5(先進国蔵相・中央銀行総裁会議)の共同声明が出され、「ドイツ・マルクと日本・円に対してだけは、米ドルに対する為替レートを市場の実勢に任せて放置する」という内容がそれとなく宣言されたのです。
円は一気に240円台から150円台にまで激しく急騰します。
1986年から1987年にかけても、さらに円は上がり続け、1987年には125円にまで達します。
そして、軌を一にして金利の方も5%から次第に下がりはじめて、1987年には2・5%まで下がっていった。
アメリカの「超円高」と「超低金利」の第一次攻撃であります。