大蔵官僚腐敗(9)「私物国家」 広瀬隆 著 より抜粋

本書に述べた政治家・官僚・財界人の実態は、国家の大計を案ずる公僕がどこにもいない、権力争いに明け暮れる人間の姿を浮かびあがらせる。
危惧していたように、銀行の倒産による預金者の危険がじりじりと迫ってきた。
打ちどころが悪ければ、日本全体が倒れる。
これが経済界だけにとどまる話であればよいが、われわれの知らないうちに膨大な金額に達した借金が、さらにふくれあがることが間違いなくなってきた。
つましい生活で満足し、生き方を切りつめている人にまで、無用の借金を背負わせた。
この事実に、どうしても許せない怒りを覚える。
日本の経済が崩壊したのは、官僚だけの責任ではない。
今でこそ口をぬぐっているが、80年代には、すべての大新聞とテレビ局の経済記者や評論家が、投機をあおり立てた。
その罪のほうが、よほど大きい。
それに乗った人間も同罪である。
しかし、昨年来、大きな問題になっているのは、そのような経済崩壊の責任ではなく、巨大な不正である。
詐欺行為であり、贈収賄であり、公金の着服であり、背任行為である。
パンダの名前ではあるまいが、いきなり官官接待などという言葉を聞かされたわれわれは、住民税に対しても、底知れぬ泥沼に足をとられた自分を察知している。
その泥棒たちが生き延びられる理由を追求したのが、本書である。
ここには、国民のすべてが、一度必ず再読しておかなければならない事件を、書いたつもりである。
一体、この「私物国家」から税金の請求書が送りつけられてきた時、結束して異議を申し立てられない自分たちとは何であろうか。
公共的なジャーナリズムが、最近は非常におとなしくなっている。
最近の彼らの語り口は、常に冷静さを装い、ジャーナリズムにも冷静を求める。
この軟弱さは、人間の哲学に関する重大な問題を含んでいるので、はっきり述べておかなければならない。
不祥事が明らかになった場合でも、責任者を名指しで非難することを恥じる、あるいはおそれる、という臆病な雰囲気が、そうした文化人のあいだに蔓延している。
そして安手の芸人が問題を茶化して、笑い話にしてしまう。
国民の怒りが、声望ある文筆家や学者によって代弁されることは、最近きわめてまれである。
感情が抑えられ、分析能力が欠如している。
映画・演劇・小説などを担う文化が、守りについている。
このように怒りの感情を抑制することは、現在のような社会悪の氾濫の中で、決して美徳ではない。
それこそが、悪事を温存し、大きく育てあげ、危険を増大するのに大いに貢献してきた。
60年代にも70年代にも、現在ほど、文化人が退廃してはいなかった。
最近の中国映画と日本映画を比較すると、そこに経済状態の違いが見えてくる。
中国映画には、国に抑えられながら、国家に反発する活力がある。
それに比べて、日本の文化人の風潮は、泰然たる風を装い、不正があっても意に介さず、温厚に発言することによって社会的ステータスを確保する慣習のようだが、そのような指摘は政治家と官僚と悪徳商人にとって、「蚊がとまった」ほどにもかゆくない。
日本の政界には悪がはびこっている。
経済問題は、その矛盾が十数年にわたって何ひとつ改善されていない。
何か一つでも改善があれば、そのあとで、はじめて冷静な状態に戻るのが人間の本来の生き方である。
こうした大人が引きずる社会であれば、子供たちがどうなるかは、ほぼわれわれが予感する日程どおりに進むだろう。
文化人というものは、迷いを捨て、感情を社会に伝達する天賦でなければならない。