大蔵官僚腐敗(7)「私物国家」 広瀬隆 著 より抜粋

ハウジングの会長となった原徹は、逮捕された河原昇がハウジング社長をつとめていた時代に、87年6月から92年まで会長をつとめた。
そのバブル経済の絶頂期と崩壊期にあたって、民間(興銀)出の河原より、大蔵省出の原のほうが後始末の責任は重かったはずだが、原の責任はまったく問われていない。
原もまた、66年に主計局主計官となり、73年には大蔵大臣官房審議官となって、オイルショックに遭遇して前述の石油人脈と深い関係をつくりあげた。
しかも理財局次長となって、財政投融資の大金を配分する査定権力をにぎったあとは、大蔵省から防衛庁に転じて、防衛事務次官までのぼりつめた珍しい経歴の持ち主であった。
彼は、幼名を小山徹といい、日本貿易振興会(ジェトロ)の理事長となる原吉平の入り婿となって改姓し、この実権を握ったのである。
原吉平は、戦前から戦時中にかけてアジア諸国を渡り歩きながら紡績利権を動かす大日本紡績で活動し、戦後は社長となって繊維業界でその権勢をふるってきた。
ところが、その原家は、建築業で日本一の清水建設で社長となった吉川清一と近親者であり、原徹が住宅金融専門会社に転じれば、相互に業界のトップが通じ合って、地価狂乱のバブル経済を近親者が演じることになった。
一方がビルと不動産の金融、一方がビルの建設現場、という役割である。
しかも、大蔵省時代の原は、理財局次長として財政投融資の大金を配分していた。
この結果が、住宅金融専門会社の破綻と、ゼネコンの破綻という、いずれも不良債権によって地獄を見る今日の事態を招くことになった。