第六十二章 動的歴史観=主観的歴史観 & 静的歴史観=客観的歴史観

主観(他者主観視)には、現実化する能力はない。
まさに、
映画の中の出来事には、鑑賞者は為す術がないのです。
一方、
客観(自己客観視)には、現実化する能力がある。
まさに、
鑑賞席に座っている鑑賞者が、映画を観ることも、映画を観ないことも、映画館の鑑賞席で眠ることも、映画館から出ることもすべて自分の意思で可能である証明に他ならないのです。
この事実は一体何を示唆しているのでしょうか?
まさに、
動くことは、静止していることから発生する現象(映像)であって、静止状態なくして、動くことは起こり得ない証明なのです。
言い換えれば、
静止が実在で、運動は静止の不在概念に過ぎない証に他ならないのです。
従而、
「二十世紀までの(従来の)歴史観」という欺瞞に満ちた歴史観は、しょせん、映像性の動的歴史観、主観的歴史観に他なりません。
そして、
欺瞞に満ちた歴史観の本質からして、記述は過去から現在へ、現在から未来へという、いわゆる心理学的時間の矢に沿ったものとなり、欺瞞性は時系列的に増幅することは言うまでもないのです。
一方、
「二十一世紀からの(新しい)歴史観」は、事実・真実・真理を貫いた実在性の静的歴史観、客観的歴史観でなければならないのです。
そして、
事実・真実・真理を貫いた実在性の歴史観の本質からして、記述は『今、ここ』から、過去へと遡ってゆくことによって、更に真理に近づくことができるのです。