第四十六章 面の歴史観

日本通史として残存するものは、先述したように、第五十八代光孝天皇治世下の西暦887年までです。
西暦794年に第五十代桓武天皇が平城京から平安京に遷都してからおよそ100年間までの歴史しか、日本通史には存在しないのです。
ところが、
平安京はその後、1868年の明治維新まで、日本の都であり続けた。
否、
正式には現在でも、日本の都は依然平安京、すなわち、京都なのです。
では、
平城京から長岡京を経由して平安京に日本の都が移った西暦794年から第五十八代光孝天皇治世下の西暦887年までの間の日本で起こった歴史的事象とは一体何だったのでしょうか?
まさに、
日本仏教界の東西横綱格である比叡山勢力と高野山勢力の礎をつくった最澄と空海が、当時の唐に留学した時代に他なりません。
一方、
当時の中国(唐)の歴史的事象は?
最澄、空海が留学した西暦804年の当時の唐は第14代皇帝・憲宗(けんそう)の時代で、道教が国教でした。
唐王朝中興の祖といわれた憲宗は、805年4月に立太子され、同年8月には順宗の病を理由にした譲位にともない即位した。
名臣にも恵まれ、拡張した軍を積極的に活用した結果、唐王朝に反抗的であった勢力も服従を誓い、衰退した唐は一時的な中興を見ました。
だが、
太子に立てられた長男が早世すると、憲宗はその悲しみから仏教や道教に耽溺するようになり、やがて丹薬を乱用し宦官を虐待するという精神的異常をきたします。
その結果、
西暦820年に宦官の王守澄や陳弘志らによって43歳で暗殺されてしまった。
他方、
当時の西洋社会の歴史的事象は?
まさに、
ヨーロッパ地域という言葉の語源であるフランク王国が誕生した時代です。
言い換えれば、
古代ローマ帝国の滅亡の直接のきっかけとなった、ゲルマン大移動の産物が、現在のフランス、ドイツ、イタリアの生みの親であるフランク王国であり、フランク王国生みの親であるカール大帝(シャルルマーニュ)が登場した時代なのです。
まさに、
日本、中国という東洋世界と、ヨーロッパという西洋世界を串刺しにした歴史観こそ、面の歴史観に他ならないのです。