第二十七章 従来の歴史は主観の歴史

われわれ現代人が学校で学び、国家の歴史と信じてきた歴史は、しょせん、主観の歴史観に基づいたものに他ならなかったのです。
まさに、
「二十世紀まで(従来)の歴史観」が、しょせん、当時の支配者たちの都合で描かれた主観の歴史観で、史実、すなわち、『今、ここ』における事実の積み重ねである真実、そして、その本質(真理)に則して描かれた客観の歴史観では決してなかったのです。
125代も連綿と続く万世一系と自称する日本の天皇家といえども、しょせん、主観の歴史観に過ぎず、天皇家以外の者にとって関心があるのは自己の祖先の系図であって、天皇家の系図など何の興味も湧きません。
ところが、
自己の存在証明をしてくれる日本という国の歴史観には、自己も含まれるゆえ、当然、関心が湧くのです。
現に、
自己の存在証明をしてくれる日本という国の歴史観は、125代も連綿と続く万世一系と自称する日本の天皇家主観の歴史観では、代弁され得ません。
まさに、
自己と他者との共通項をまとめあげた客観の歴史観でなければ到底不可能なのです。
従而、
古今東西、尊敬されるべき歴史家とは、権力者に阿らず史実を描いてきた者だけに与えられる称号で、彼らが語ってきたことは、時空を超えて、事実・真実そして真理へと繋がるものに限られてきたのです。
まさに、
文字通り、古代ギリシャのヘロドトスの『歴史』、古代ローマのタキトスの『歴史』、そして、古代中国の司馬遷の『史記』然りであるが、古代日本の「日本書紀」はしょせん、天皇家の主観の歴史に過ぎません。
従而、
客観的視点に基づいて描かれたものでないと、真の歴史書ではないのです。
逆に言えば、
主観的視点に基づいて描かれたものは、真の歴史書ではないのです。
従而、
「二十世紀まで(従来)の歴史」は、真の歴史書ではないのです。