エントロピーの落し子たち

エントロピーの逆流現象が19世紀後半の世界を席捲した結果、常識では考えられないぐらい、若者が世の中を動かす主役に躍り出た。
明治維新の陰の主役といわれた日本の女傑の一人に長崎の大浦慶がいる。
嘉永6年(1853年)、浦賀に黒船が来航した年に、時代の潮流を逸早く読み取った慶は通詞・品川藤十郎と協力して出島にてオランダ人・テキストルに嬉野茶を託し、イギリス、アメリカ、アラビアの3ヶ国へ茶を送ってもらうことにした。
この時、9斤の茶葉を三階級に等分し、各階級1斤ずつ各国に割り当てた。
そして同年9月、テキストルが出島から出港した。
その3年後の安政3年(1856年)8月にイギリスの商人、W・J・オールトが来航。
オールトはテキストルに託した茶の見本を見せ、巨額の注文を出したのである。
慶は、嬉野茶だけでは足りず、九州一円の茶の産地を巡り、やっとのことで1万斤を集めアメリカに輸出した。
これが日本茶輸出貿易の先駆けとなったわけだが、この巨額の貿易を仕組んだW・J・オールトは弱冠16歳の少年だった。
そして、
慶自身、まだ28歳だった。
その時、陸奥宗光はまだ12歳で、父の失脚後、紀州から江戸に出て安井息軒に師事するも、吉原通いが露見し破門されてしまう。
女癖の悪さがすでに頭を擡げていたのである。
まさに、
エントロピーの逆流現象がここにも顕れていた。
一代で巨額の財を成した大浦慶は、勤王の志士たちのパトロン役を進んで買い、なかでも坂本龍馬と陸奥宗光には特別な感情さえ湧いていたらしい。
慶本人の意思なのか、それとも彼ら稀代の「女たらし」の所為か。
通説では、お龍は龍馬にとって一人だけの女だったと云い、亮子は宗光にとって一生の伴侶だったと云いながら、お龍は再婚し、哀れな晩年を迎えており、宗光の死後、亮子は宗光の隠し子まで面倒を見ている現実は、通説の信憑性を甚だしく傷つける話である。
歴史の事実、すなわち、史実を明らかにするのが歴史の使命であり、歴史学の責任である。
歴史学が科学(人文科学、社会科学)と言われる所以であり、歴史小説はしょせん文学に過ぎない所以でもある。
そういう観点からすると、司馬遼太郎はしょせん歴史小説家であって、歴史家、歴史学者ではない。
いくら各地を巡って史料を集めても、史料の料理、すなわち、史料批判が正しく行われなければ、歴史的事実、すなわち、史実を明らかにしたことにはならず、必然、歴史のもう一つの要件である、正しい解釈は不可能になり、そのような文献は歴史的価値を持たない。
それを「司馬史観」と命名したのは一体誰なのか?