真の歴史学

人間社会に大衆化が襲ってくることを100年前に予言したスペインの哲学者ホセ・オルテガが、“歴史とは、現代史を科学することである”と喝破している。
何を言おうとしているのか?
歴史とは、『今、ここ』の事実を、正しく(客観的に科学的に)大衆に伝えることだと喝破しているのである。
そして100年後に起こった、東日本大震災の翌日に発生した福島原発問題。
その翌日には、日本政府の枝野官房長官は嘘をついた。
この嘘が後世の歴史的史実として残るとしたら、歴史学など百害あって一利もない学問である。
だが、
当時の政府高官が嘘をついた事実は、『今、ここ』なら誰でも知っている事実であるが、歴史として語られるであろう頃には過去の事象となっており、『今、ここ』の証人はもはや存在しないため、過去の出来事になってしまい、嘘の史実だけが残ってしまう。
まさに、
『今、ここ』におけるボタンの掛け違いは、過去の出来事になればなるほど、大きく離れてゆく。
明治維新政府が日本を西欧並みの近代化を達成しようとしても、しょせんはメッキ張りのニセモノであることがすぐに剥がれてばれてしまう蛮行は、『今、ここ』の事実をも曲げてしまおうとする指導者がいる限り、避けることはできない。
更に、
そんな指導者の下に、その上にドッカと居座る天皇家も同罪、もしくは、それ以上に罪は重い。
宮刑を覚悟しても、史実を記述することをライフ・ワークにした司馬遷のような歴史家が日本にはどうして輩出しなかったのだろうか?
己の名誉欲や権力欲、延いては、その原点にある食欲、性欲という本能欲を陰で発揮するような歴史家ばかりを生む日本に、真の歴史学など生まれるわけがないだろう。