陸奥宗光の本名

陸奥宗光は本名ではない。
伊達小次郎。
天保15年(1844年)、紀州藩士・伊達宗広と政子の六男として生まれ、幼名は牛麿(うしまろ)。
生家は仙台藩・伊達政宗の末子・伊達兵部宗勝の後裔と伝えられるが、実際は古くに陸奥伊達家から分家した駿河伊達家の子孫であり、陸奥陽之助とも称し、爾来、陸奥宗光と自称するようになったと言う。
だが、
真相は自身がロシア人であることを隠すための隠れ蓑であった。
だが、
嘘は必ず語るに落ちる。
嘘をつくことに対する良心の呵責が語るに落ちるからである。
宗光が政治犯として網走刑務所に収監されたが、網走刑務所は凶悪犯罪者用であって、政治犯が収監されるなど前例がなかった。
政治犯と殺人犯とでは、知性の差が月とスッポンのみならず、理性の差も月とスッポンほどの差がある。
殺人犯の刑務所である網走刑務所は、政治犯にとって余りにも劣悪であった。
当時総理大臣であった伊藤博文が、その地位を遣ってまで、宗光を網走刑務所から仙台刑務所に移したことがその証左である。
「イワノフ・ボロビッツ!出ろ!」
看守がドアの子窓を覗きながら宗光に向って言った。
聞こえぬふりをする宗光に、どなるようにもう一度看守は言う。
「お前の正体はバレているんだ!早くここを出ろ!」
陸奥宗光でもない、伊達小次郎でもない、幼名の牛麿(うしまろ)でもない、伊達兵部宗勝の後裔と伝えられる陸奥陽之助でもない、イワノフ・ボロビッツが本名だったのである。
そして、
宗光の妻である亮子もロシア人であった。
陸奥亮子。
東京新橋の芸妓で、芸者時代は“小鈴” と呼ばれていた。
況してや、
明治5年(1872年)に最初の蓮子夫人が亡くなり、翌明治6年(1873年)に亮子と結婚しているが、陸奥が二回結婚した相手は共に花柳界の女性であった。
陸奥蓮子。
浪花新町の芸妓で、芸者時代は“お米”と呼ばれていた。
明治16年(1883年)1月4日。
宗光はまだ8ヶ月の刑期を残して特赦により放免された。
出獄から1年あまりで宗光は先ず、アメリカに外遊。
外遊の目的は列強諸国の憲法と行政を学ぶことであり、ロンドンのケンブリッジ大学教授の個人教授を受けもしたらしい。
明治21年には、特命全権公使としてアメリカに夫人と共に赴任。
長男・広吉はケンブリッジ大学に留学。
長女の清子と次男の潤吉はアメリカのコーネル大学に留学。
潤吉はその後、古河財閥の養子になっていく。
紀州出の一介の浪人が一体如何なる術でここまでの栄華を極めることが可能だったのか?
その極めつけが、宗光は明治30年でこの世を去ったが、残された陸奥邸は、現在ではバラの庭園として有名な東京都北区西ヶ原にある旧古河庭園となり、昭和31年(1956年)には都立公園として開園された一万坪に及ぶ広大なもので、現在では国の名勝に指定されている。
本名のイワノフ・ボロビッツでは、ここまでの栄華を享受できたであろうか?
その分岐点が、明治から大正に至るまでの、虚構の明治時代だったのである。