縄文人と弥生人の狭間

弥生時代は、西暦前3世紀頃からはじまると言われているが、弥生文化の象徴とも言うべき稲作文化は、九州佐賀県唐津の菜畑遺跡の土器に付着している稲の籾の化石から西暦前900年頃のものと判明され、更には、日本最古の稲の痕跡が縄文時代中期の岡山県朝寝鼻遺跡から稲独特の細胞「プラントオパール」が発見され、今から6〜7千年前に稲作があった可能性があるらしい。
弥生文化=稲作文化でなかったのであり、縄文時代から稲作文化は存在していたのである。
しかも、
西暦前4000年から5000年にかけての縄文中期に既に稲作文化は存在していたのである。
中国の江南地方、すなわち、揚子江中流から下流が原産地の稲が、朝鮮半島を経由せず、日本列島に伝わるルートが西暦前4000年から5000年には確立されていたのである。
アイヌ人=縄文人日本原住民説ではなく、縄文人も弥生人と共に渡来人説が有力になり、いよいよアイヌ人こそが日本原住民に他ならないことになりそうで、そうなるとますます日本人=ロシア人説が決して荒唐無稽な話でなくなってくる。
明治天皇が京都に帰って伏見城を行幸した折の情景を、明治天皇のみならず、一行の連中の様相がロシアの貴族フォン・エプスタイン家の顔形にそっくりであったと、イギリスの大百科辞典に記述がある。
江戸時代までの日本人の容貌とまったく違う人種が、明治維新以降の日本人になったのである。
異常な気候変化が起こった紀元前1300年頃に、イラン、アフガニスタンで暮らしていたアーリア人が、南東に移動、インド亜大陸に侵入してきた結果、インド西部にインダス文明を起した先住民のドラビダ人が隅へ追いやられ、やがて、インド東部にガンジス文明を起し、ベンガル人になっていったように、縄文人の侵入で先住民だったアイヌ人が隅へ追われ、北海道と沖縄だけに住むようになり、彼らが縄文人の祖先と誤解されるようになったが、実は、アイヌ人が先住民であって縄文渡来人ではなかったのである。
まさに、
弥生人と縄文人の狭間で辛酸を舐めさせられてきた先住民のルーツがロシア人だったのである。