日本のへそ・吉野

日本の歴史の黎明期である邪馬台国を記した「魏志の倭人伝」は、二十四史の一つ「三国志」の中の魏書を総称して魏志と呼ぶ中での倭国伝のことである。
三世紀に書かれたものであり、邪馬台国成立が三世紀前半といわれる所以である。
易姓革命によって王朝が変わるのが古代中国の伝統であり、それは、中華人民共和国になった現在でも変わらず、後々の中国の史書には、必ず、それぞれの王朝歴史の中で「倭国伝」が記される。
二十四史の一つ「宋書」の(倭国伝)は、五世紀に書かれたもので、倭の五王の最後の一人、中国名「武王」は日本では「雄略天皇」と呼ばれた五世紀後半の混乱期から抜け出した時代の人物であるとする所以である。
「倭の五王」の中国名は、讃、珍、済、興、武と記され、「宋書」(倭国伝)では、興と武は兄弟で済の子と明言しているが、讃と珍の間には血の繋がりはなく、ましてや、済とは無関係としている。
ところが、
「倭の五王」の日本名は、武が第21代雄略天皇、興が第20代安康天皇、済が第19代允恭天皇、ここまでははっきりしているが、讃と珍の指定は諸説あり、第15代応神天皇、第16代仁徳天皇、第17代履中天皇、第18代反正天皇は、それぞれ親子とする「日本書紀」に対して、実体はまったく赤の他人と「宋書」(倭国伝)は言う。
現に、
日本の正史「日本書紀」で応神、仁徳の親子関係のやり取りは皆無である。
その謎を解く鍵が四国と紀伊半島にあった。
その中心にあるのが、奈良の吉野にあった。
吉野の宮滝(旧吉野宮)と伊勢内宮の距離と、伊勢内宮と名古屋熱田神宮の距離がまったく同じで、吉野の宮滝(旧吉野宮)と伊勢外宮の距離と、伊勢内宮と名古屋熱田神宮公園の中にある、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の妃、宮簀姫(みやずひめ)の墓とされる断夫山古墳の距離がまったく同じなのである。
更に、
吉野の宮滝(旧吉野宮)と大和箸墓古墳を結んだ延長線上に、神功皇后の墓と孝謙天皇(重祚して称徳天皇)の墓が奉られているのである。
まさに、
“すべての道はローマに通じる”ではないが、すべての道は吉野に通じていたのである。

陸奥宗光がまだ伊達小次郎だったころ、父の伊達宗広によく連れていってもらった場所がある。
“紀州がなぜ御三家のひとつになったか?これから行く場所がその理由を教えてくれるだろう”
嘗て、天武天皇が天智天皇の追っ手から逃れ着いた場所であり、後醍醐天皇が足利尊氏の追っ手から逃れ着いた場所が吉野宮であった。
徳川御三家のもうひとつ水戸家が徳川親藩でありながら尊王思想を持ち続けてきた理由も実は同根であった。