徳川家康の正体

武田信玄影武者説はつとに有名な話であり、信玄が上洛の夢半ばにして、あの世に逝ったことを隠すためだとか、信玄の遺言に基づく説など諸説紛々だが、徳川家康影武者説は蘭学者である林羅山たちの研究で俄に江戸時代に持ちあがった説であり、明治維新劇は江戸徳川武家政権を真っ向から否定した出来事ゆえ、明治時代に入って、徳川家康影武者説や徳川家康二人説といった流言蜚語が飛び交った。
家康が太閤秀吉から移封を申し渡された場所は、その100年前に太田道灌が築いた城のある武蔵野の地であった。
松平元康から徳川家康に改名したのも、江戸に移った際だった。
徳川家康は、その際、源氏姓を名乗ることを、京の朝廷に申し出た。
源氏は清和源氏と呼ばれるように、清和天皇の落胤に与えられた姓で、鎌倉幕府を開いた源頼朝は言うまでもなく、室町幕府を開いた足利尊氏も源氏で、武家政権の頭領は源氏姓を名乗らなければならず、窮余の策として源氏姓使用を朝廷に申し出た、と史実は伝えてきた。
だが、
徳川家康の正式姓は松平であり、松平元康を名乗っていた。
松平元康の元は今川義元から、康は祖父の松平清康から取ったものである。
だが、
徳川家康は、松平元康を名乗る前に世良田二郎三郎元信と名乗っていた時代があったが、世良田とは源氏の流れを汲む名なのである。
源氏の流れには源八幡太郎義家の流れと新田義重の流れがあり、足利尊氏や武田信玄は新田義重の流れを汲むのに対して、世良田や得川(徳川の語源)は源八幡太郎義家の流れを汲む。
だから、
家康は源氏姓を名乗る資格があると判断して、京の朝廷に申し入れしたのである。
松平元康と世良田二郎三郎元信。
徳川家康の若き頃の名である。
まさに、
徳川家康影武者説と武田信玄影武者説の接点の秘密の鍵が、世良田二郎三郎元信という若き時代の徳川家康の名にある。
家康の幼名は竹千代であり、4歳で今川家に人質に出されそうになったが、身内の裏切りによって、織田信長の父の信秀が支配する織田家に引き渡され6歳まで、その後、6歳から8歳まで岡崎に戻ったが、14歳まで6年間、再び、今川家の人質になって元服を迎え、今川義元の「元」の一字を貰って、世良田二郎三郎元信と名乗るようになったが、ちょうどその頃、「桶狭間の合戦」が起こり、義元が織田家を継いだ若き織田信長によって首を刎ねられた事件以来、今川家は衰退し、それに乗じて家康は人質から解放され岡崎に戻り、世良田二郎三郎元信から松平元康に名前を換えたのである。
まさに、
明治維新の真相を見抜く上において、絶対に外してはならないキーワードが、世良田二郎三郎元信という徳川家康の正体にある。