武士の起源

東京が世界の大都市になるなど、徳川家康といえども想像すらしなかっただろう。
桶狭間の合戦以来、三河岡崎、遠江、駿河を我が領地として加えていた家康だが、自分よりも逸早く天下人になった豊臣秀吉によって三河岡崎、遠江、駿河から移封された地が太田道灌の開墾した、当時は武蔵野と呼ばれていた江戸であった。
1192年に鎌倉ではじまった武家社会時代の主人公である武士のことを、坂東武者と呼んでいるが、この坂東の地こそ武蔵野の地に他ならなかった。
武士を頂点にした士農工商という階級制度をつくった徳川家康だが、武士も嘗ては坂東の農民であり、農民にとって命と同等の価値を持つ土地を、京の都の貴族たちから守るために蜂起したのが武士の起源に他ならず、清和源氏や桓武平氏といった貴族の血を受け継いだ武士と一線を画していたのが坂東武者の本分であり、その代表が平将門であったから、彼は天皇になろうとしたのである。
東京駅丸ノ内側にある大手町の一角に「将門塚」が今でもある。
三井物産本社ビルの片隅にある「将門塚」の傍を通りかかる人々の中には、一礼する人が現在でも多く見受けられる。
江戸っ子と呼ばれる人々である。
関東大震災が起こるまでは、東京の中心街は神田から浅草にかけての地域で、いまでは中心になった銀座から日比谷にかけての地域は、皇居の外野として開放地にしておかなければならず、丸の内から大手町界隈も同様であった。
その中に、反逆分子の平将門の首塚である「将門塚」が置かれていたのは、明らかに見せしめ目的であり、いわゆる「晒し首」に他ならない。

もののふの 八十娘子(やそおとめ)らが、汲みまがふ 寺井の上の 堅香子(かたかご)の花 −大伴家持 (19−4143)−
武士が「モノノフ」と呼ばれ出した歴史は極めて古く、遠く万葉集から始まる。
「もののふ」は「八十」にかかる枕詞であり多くの乙女(処女)のことをさす。
では、
多くの乙女(処女)がなぜ「武士(もののふ)」になったのか?
田畑を開墾するのが武士(もののふ)の本分であり、乙女(処女)は田畑の代名詞であったからだ。
まさに、
武士の本分は戦士ではなくて百姓であった。
聖徳太子が「十七条憲法」を記した際の、役人に対する百姓とは武士(もののふ)に他ならなかったのである。