人類発祥の地・日本列島

聖徳太子が遣隋使として派遣した小野妹子が持参した書状を見て、隋の皇帝・煬帝が激怒したのは、倭奴国と下に見ていた国が「日出處天子」(日出ずる処の天子)とぬけぬけと言ったからであるが、それだけの理由ではなかった。
聖徳太子の正体こそ、煬帝が不倶戴天の敵として戦ってきた突厥人の首領・達頭汗(タッドハーン)だったからに他ならない。
漢民族と突厥民族の戦に勝利した煬帝だったが、肝腎の敵方の首領である達頭汗(タッドハーン)は朝鮮半島に逃げこみ、その後、行方知れずになっていたと「隋書」では記録されていた。
ところが、
「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)と、達頭汗(タッドハーン)自ら、名乗り出たのである。
まさに、
「・・・・・・・・無恙云云」、つまり、「恙無しや、云々」とは、「ご機嫌如何・・・」と言っているわけで、ふたりは面識があったわけだ。
隋の皇帝・煬帝は、倭奴国の天子と名乗ってきた聖徳太子の正体こそが、不倶戴天の敵として戦ってきた突厥人の首領・達頭汗(タッドハーン)だと、小野妹子の書簡で判明したから激怒したのが真相である。
倭奴の島国の第三十一代用明天皇の皇太子なら、ユーラシア大陸の全貌などわかるすべもなく、倭奴の島国が東の果ての地にあるゆえ、「日出處」(日出ずる処)と言えるためには、ユーラシア大陸の全貌を熟知していなければならないからである。
だから、
聖徳太子とは世を憚る仮の名で、その実体は突厥人の首領・達頭汗(タッドハーン)だったに違いないと、隋の皇帝・煬帝は見抜いていたのである。
そして、
日ノ本(日本)という国家が誕生したのが、ちょうどこの頃である。
紀元節の原点にある皇紀元年が、西暦紀元前660年2月11に設定された動機は、推古9年(西暦600年)にある。
その時代の支配者こそ渡来人、聖徳太子その人であるからだ。
シルクロードは内陸ルート、沿岸ルート、海上ルートという三本のルートがあったと言われるが、ターミナルはローマと長安が定説である。
だが、
ダマスカスと奈良がシルクロードの真のターミナルであった。
ダマスカスは現在のシリア国の首都だが、古代ローマ時代には最大の属州シリアの首都であり、最大の交易都市であった。
歴代のローマ皇帝は、属州シリアの提督を勤めあげることが必須で、現に、ローマ帝国が繁栄の極みを謳歌していた五賢帝時代の中興の祖ハドリアヌス帝は属州シリアの提督から皇帝になり、属州ブリタニア(現在のイギリス・ブリテン島)に長城を建設していたが、その原資は属州シリアのダマスカスが西洋と東洋の交易ルートのシルクロードの西のターミナルであった一方、シルクロードを渡って東のターミナルの奈良まで及んでいた証に他ならない。
そして、
その物証は奈良の正倉院の中に山積みされているのである。
まさに、
日本列島という地政学的存在こそ、人類発祥の地であったかもしれないのである。
そうすると、
1922年(大正11年)に相対性理論のアルバート・アインシュタインが来日して日本各地で講演をした。
その時のメッセージが、決して荒唐無稽なものではないと思えてくるのである。

世界の未来は進むだけ進み
其の間、幾度か争いは繰り返されて
最後の戦いに疲れる時がくる
其の時人類はまことの平和を求めて
世界的な盟主をあげねばならない
この世界の盟主たるものは
武力や金力ではなく
あらゆる国の歴史を抜き越えた
最も古く、また
最も尊い家柄でなくてはならぬ
世界の文化はアジアに始まって
アジアに帰る
それはアジアの高峰
日本に立ち戻らねばならない
われわれは神に感謝する
われわれに
日本という
尊い国を作って置いてくれたことを・・・。