四国=死国

本州島、九州島、北海道島の次の四番目の島だから四国と呼ぶ。
建前という欺瞞もいいとこである。
罪人が流される島だから死国であるというのが本音の話だ。
罪人とは一体如何なる罪を犯して罪人と云われるのか?
部落、穢多、非人、夙、茶筌、猿曳、宮番、番多、四つ・・数えあげたら際限(きり)がないほどの被差別者に対する蔑称が日本全国にある。
“一体何が悪くて差別されるのか?”
“一体何をしたというのか?”
差別が行われる社会で、被差別民が悲痛の叫びと共に発せられる台詞だ。
死国という島は、この台詞と共に生き延びてきた。

皇紀元年(紀元前660年)
推古9年(西暦600年)
慶長5年(西暦1600年)
西暦と日本元号が奇妙に符合するのは、単なる偶然の所産と言うには例が多すぎる。
死国が四国に変えられたのが、慶長5年(1600年)である。
天下分け目の関ヶ原の合戦があった年である。
それまでは、本州島や九州島から死国と呼ばれていたのである。
ニグロという言葉は黒人が遣う言葉ではなく、白人が遣う言葉であるのと同じ道理だ。
アメリカン・インディアンいう言葉はアパッチ族やスー族やコマンチ族が遣う言葉ではなく、白人が遣う言葉であるのと同じ道理だ。
部落、穢多、非人、夙、茶筌、猿曳、宮番、番多、四つ・・という言葉は被差別民が遣う言葉ではなく、差別民が遣う言葉であるのと同じ道理だ。
死国という言葉は伊予二名島民(いよのふたなのしまのたみ)が遣う言葉ではなく、本州島人や九州島人が遣う言葉であっただけで、いわゆる差別用語に他ならず、江戸幕府を開き、「士農工商」という差別制度を用いて支配力を強化する目的を持った徳川家康の卑劣なる行為で、そのそそのかしに乗ったのが、土佐98、000石を与えられた山内一豊である。
慶長5年(1600年)以降、土佐藩が阿波藩、伊予藩などと共に誕生しただけで、慶長5年(1600年)以前は、伊予二名島(いよのふたなのしま)と自身は呼び、本州島や九州島からは死国民と蔑称されていた島民は伊予二名島民(いよのふたなのしまのたみ)であった。
そして、
伊予二名島民(いよのふたなのしまのたみ)を支配していたのが長宗我部一族であった。
長曽我部一族は12世紀末に、本州島の吉備の国から土佐国長岡郡宗部郷に移住してきた秦河勝の末裔のことを言う。
秦一族は弓月君が応神16年に16000人の家来を引き連れて渡来した人たちで、渡来前の朝鮮半島での名前は融通王と言われていた人物が高祖で、末裔の秦河勝は帰化人である。
朝鮮半島から壱岐、対馬といういわゆる「とまり木」経由で南下して、北九州から関門海峡を潜り抜け、吉備の国で上陸して一旦落ち着いた。
その後、瀬戸内海を渡って伊予二名島に落ち着いたのが長曽我部一族で、秦という姓から坂本という姓が派生していった中で、坂本龍馬の生家へと繋がっていくのである。

差別するから差別される。
差別しないから差別されない。
死国島と他島から差別される四国民の中でも差別が起こる、という人間だけが持つ悲しい性。
土佐藩第15代藩主山内容堂の時代に幕末を迎えた中で、長曽我部一族の流れを汲む坂本家は郷士と呼ばれ、下級武士にも届かない被差別階級に置かれ続けていた。
特に、初代藩主山内一豊の時代に、長曽我部一族の大半が騙し撃ちで皆殺しに遭った事件は、200年以上経った坂本家にも言い伝えられてきた。
そんな中で龍馬は育ち、剣術修行のため赴いた江戸でカルチャーショックを受けることになる。
剣術修行を終え、一旦帰国した龍馬の心には、“脱藩”の二文字が既に芽生えていた。