鼎の軽重を問う

明治維新劇を成功させた最大の要因である薩長連合。
その薩長連合を実現させた最大の功労者が坂本龍馬であるとするのが歴史の通説である。
だが、
薩長連合劇の鼎だったはずの坂本龍馬の名前が世に知れわたりはじめたのは、明治維新の遥か後で、司馬遼太郎の「龍馬がゆく」の小説ドラマが茶の間で人気を博した昭和43年(1968年)以後の現象に過ぎない。
古人の格言通り、やはり、鼎の軽重を問わなければならないようである。
欧米列強諸国と圧倒的文明差をみせつけられた江戸幕末の日本人指導者たち、すなわち、支配者側の連中の足下に火がついた。
被支配者側の連中にとっては、支配者が誰であろうと関係ないどころか、変化が起こることは却って望むところ。
旧態依然という言葉は支配者用語であって、被支配者用語にあるのは新規革命だけである。
江戸幕藩体制の支配者側である徳川幕府政権であろうが、明治維新体制の支配者側である明治天皇政府であろうが、欧米列強諸国との圧倒的文明差を見せつけられた限りは、新しい国づくりをするしか道はなかった。
まさに、
明治維新劇は、そんな中で演じられたドラマに他ならない。
劇でありドラマである限りは、必ず脚本が要るし、名脚本家の手になるのが歴史に他ならない。
乙己の変を大化の改新まで持ち込んだ中臣鎌足は、その後、千数百年、裏の世界から日本を支配する一族の礎をつくった原作者だが、肝腎要の鼎、すなわち、名ドラマにするための脚本は、その息子の藤原不比等が描いた。
その結果、
万世一系を世界に誇る日本の天皇家だが、天皇の后としてはじめて迎えた庶子、正田美智子をバセドー氏病に陥るまでいじめ抜いた良子(ながこ)昭和天皇妃まで、藤原一族の繁栄と共に続いてきた。
そういう観点からすると、
明治維新劇の鼎が坂本龍馬であったように、平成維新劇の鼎は正田美智子と言っても過言ではない。
そして、
明治維新劇の鼎の軽重を問うためには司馬史観を見直す必要があるように、平成維新劇の鼎の軽重を問うためにも司馬史観を見直す必要があるようだ。
なぜなら、
日本の近代・現代史観はこの男によってつくられてきたからである。