薩長連合の正体

明治37年(1904年)に日露戦争が勃発したが、英国に取って代っての露国との代理戦争が実体であった。
それを仕組んだのが、長州ファイブと薩摩ナインティーンである。
大英帝国の対日戦略は巧緻を極めていた。
嘗て、インドや中国に採った戦略とは一味も二味も違っている。
大英帝国の対印戦略が西欧文明の輸出にあったのは、キリスト教世界をインドまで拡げるためであった。
まさに、
キリスト教徒にとって、インドはプレスタ・ジョン伝説の憧れの地であったからだ。
大航海時代の動機は交易(貿易)ではなく、プレスタ・ジョン伝説の憧れの地を目差してのことで、コロンブスのアメリカ大陸発見は、インド発見の錯覚に過ぎなかったのが事実であり、西インド諸島やアメリカン・インディアンの名称として残っているのが、なによりの証左に他ならない。
一方、
大英帝国の対中戦略は、飽くまで自由貿易の振興にあったのは、当時の中国がまさしく世界最大の経済大国であった点にある、
他方、
対中戦略の延長線上に対日戦略があったのは明白で、その根拠は日本が黄金の国であったからだ。
産業革命で資本主義思想が拡充され、すでに資本主義が発達していたイギリスで更に拡大された生産物に見合った市場規模が必要になっていた。
まさに、
植民地政策は市場規模拡大策に他ならなかったが、それに伴う通貨膨張策の基本にあるのが金(ゴールド)の裏づけであった。
自国の金(ゴールド)保有量では通貨膨張策に限界があるため、世界の金(ゴールド)に目をつけなければならなかった。
そこに黄金の国ジパングがあった。
産業革命によって機械化に逸早く成功したイギリスは、紡績機を発明し、それまでの綿糸の輸入国から輸出国になり、国内総生産額が飛躍的に増大したが、イギリス国内だけの市場では需要もおぼつかないし、肝腎の通貨を増やすことができないというジレンマに陥っていた。
残された方策は外国の市場に打って出ることしかなかった。
植民地政策を生み出す必要の母がここにいたのである。
イギリスが大陸の大国フランスより先手を打てた最大の要因は、蒸気機関がイギリスで発明されたからであった経験から、経験主義哲学がイギリスで誕生したことが大きい。
経験主義が自由主義を生み、自由主義が資本主義を生み、20世紀にはじまる東西冷戦の一方の軸がアメリカではなくイギリスで誕生したことを見逃すことはできない。
その遠因に日本の長州ファイブと薩摩ナインティーンが深く関わり、薩長連合劇は大英帝国の描いたシナリオであり、東西冷戦のシナリオも大英帝国の描いたシナリオに他ならなかったのである。