内政の極意

内憂外患という言葉が政治の世界にあるが、そんな状況に陥った国家は、必ず消滅の憂き目に遭うことは必定である。
実際には、内憂外健か、内健外患かのどちらかで収まっているのが通常の国家状況である。
内政が健全な状態なら、外交に問題がある。
若しくは、
内政に問題があるなら、外交は健全である。
だが、
外交の健全性とは、国家間の緊張が常態化することに他ならない。
国家概念が誕生したと同時に戦争概念が発生する所以がここにある。
戦争のない平和な世界を人類が真に望むなら、国家概念を失くすしか道はないのである。
ところが現状の政治の要諦は内政にあって、外交は内政の不安定さを覆い隠す、実は隠れみのに過ぎず、内政が安定している国家は鎖国状態を目指し、内政が不安定な国家が戦争をしでかすのである。
従って、
内政に強い政治家の下でないと、国家は常に戦争の憂き目に遭う。
逆に言えば、
外交に強い政治家の下では、国家は常に戦争の憂き目に遭う。
陸奥宗光が天才的な外交術を発揮できた背景には、日本という国家の内政に問題があった所以を示唆しているのであり、国家、延いては、国民にとって不幸以外の何者でもなかったのである。
人類間でしか起こり得ない戦争が、なぜ人類から嫌われながらもなくならないのだろうか?
為政者(支配者側)も、国民(被支配者側)もみんな戦争が嫌いなら、戦争など起こりようがないはずなのに、なくならない戦争。
戦争を好きな誰かがいるから、戦争がなくならないのである。
まさに、
好戦家という言葉があるぐらいだから、戦争を好きな人類が存在する証に他ならない。
では、
一体誰が好戦家なのか?
言うまでもなく、
戦争によって功的側面を享受している連中に違いないだろう。
しかも、
12000年前の文明社会発祥の頃から、現在に至るまで戦争が途絶えた時代が一切なかったのは、戦争によって功的側面を常に享受している連中がいたからに他ならない。
戦争に常に勝利してきた者など決してないはずで、時には敗北者側になることは必定なのに、戦争によって功的側面を常に享受している連中がいたのである。
まさに、
支配者側は、戦争の敗北者には決してならず、常に勝利者側にあったから、戦争による功的側面を常に享受していた証である。
畢竟、
戦争の常勝者は、国家や宗教ではなく、組織のトップ、すなわち、支配者側に他ならなかったのである。
逆に言えば、
戦争の常敗者は、国家や宗教ではなく、組織のボトム、すなわち、被支配者側に他ならなかったのである。
そうすると、
ヒエラルキー組織、いわゆるピラミッド型組織は、決して同質の社会などではなく、勝者と敗者が、まさに、玉石混淆したシロモノに他ならないことが浮き彫りにされてくるのである。
20世紀までの人間社会は、組織の時代といわれ、個人よりも組織重視の時代が続いてきた結果、組織の最大単位である国家から、最小単位の家族まで、すべてヒエラルキー組織、いわゆるピラミッド型組織になり、国家においては国家元首が、家族においては家長がその頂点に支配者側として立ち、一般国民や子供が底辺に被支配者側に置かれるのが、20世紀までの組織の時代の人間社会だったわけであり、そんな人間社会だけにしかない戦争の、勝者と敗者は、断じて、組織間の問題ではなく、組織の中の支配者側と被支配者側にあったことを、人類はもうそろそろ気づかなければならないだろう。
まさに、
「個人の時代」といわれる21世紀とは、気づきの時代の幕開けに他ならないのである。
この革命的気づきを、圧倒的多数を占める大衆(国民)がしない限り、戦争のない平和な社会は決して望めないのである。