パクス・ブリタニカの威力

アメリカ独立革命(1776年)、フランス革命(1789年)、ロシア革命(1917年)という近代国家形成における決定要因子が「革命(Revolution)」にあったのに対し、明治維新は「維新(Restoration)」にしたから「維新の元勲」が存在する。
明治維新(Meiji Restoration)は、勝海舟と西郷隆盛の江戸城無血開城によって実現されたと言っても過言でないが、この事件直後のロンドンで出された号外では、「明治維新(Meiji Restoration)達成」ではなく、「日本革命(Japanese Revolution)達成」という見出しであった点を、われわれ日本人は見逃してきた。
そして、この革命劇の隠れたヒーローとして、「長州ファイブ」と「薩摩ナインティーン」の存在があり、特に、大久保利通が暗殺された後の明治時代を仕切ってきた伊藤博文の日本以外の風聞はまさに「売国奴」そのものであり、この伊藤と手を組んで、日清戦争、日露戦争の陰の部分を演出してきたのが陸奥宗光である。
明治維新と言えば、薩摩と長州との、いわゆる薩長同盟が原動力といわれている。
現に、
明治維新政府のトップから末端の役人まで、薩摩と長州の旧藩士が占めてきたことが如実に示している。
それまで一方言に過ぎなかった江戸子弁と長州弁が混ざり合って、現在の標準語になった経緯は、維新後、長州人が江戸(実際には千葉房総)に大挙移住した結果である。
東の房総半島と西の紀伊半島は、日本列島という島文化の中心地域として、地政学的に重要な地であった。
そのことを熟知していたのが紀伊出身の陸奥宗光であったのは至極当然であったが、長州出身の維新政府の役人たちの住まいを房総半島に置くことを提案した背景には、宗光の深慮遠謀があったというより、龍馬の後ろにいる大きな陰の遠大な戦略が潜んでいたのである。
大英帝国の英語名である「British Empire」はブリテン島から取られたものだが、古代ローマの「五賢帝時代」のひとり、ハドリヤヌス帝がこの島を属州にしたときに、長城を築いたことからはじまる。
「ハドリヤヌスの長城」と呼ばれているものだ。
ロンドンを守る城壁としてつくられたものだが、ハドリヤヌス帝の跡を継いだアントニヌス・ピウス帝が次に「アントニヌスの長城」を築いた。
ブリテン島を南北に分断するためであり、スコットランドの誕生である。
まさに、
日本列島を南北に分断し、シベリア文化圏と半島文化圏の二つに分け、それぞれの中心に房総半島と紀伊半島を置いたのである。
二つの長城によってブリテン島を分断し、北の僻地を南の肥沃地が支配する。
大英帝国が当初立てた日本改造計画は、飽くまで京都を中心にした南北日本だった。
大英帝国の意を知っていたのか、第二次世界大戦の戦後処理方法を話し合ったポツダム会議で、ソ連のスターリンは日本の南北分断を迫り、歴史的に深い関係にあった北日本をシベリア文化圏としてソ連が取り込む計画を持っていたのである。
その半世紀前にロシアは日本との戦争に不覚にも敗れた。
背景に大英帝国が潜んでいたことに気づかなかったからである。
爾来、
ロシアがソ連になっても、パクス・ブリタニカの威力は依然大きなものであった。