生麦事件の真相

文久2年(1862年)8月21日、江戸から京へ向かう大名行列が、現在の神奈川県生麦町を通過する東海道で事件を起こした。
いわゆる生麦事件である。
徳川家康が開いた江戸幕府時代の日本は、連邦制式を採用したアメリカとよく似ている。
ワシントンの連邦政府が徳川幕府で、各州が藩諸に当たるが、藩諸には三つの区分けがあった。
親藩、譜代、そして、外様の三つである。
天下分け目の関ヶ原の合戦(1600年)で勝利した東軍の大将・徳川家康は、徳川家およびその一族を親藩と呼び、敵方西軍側に与した諸侯や東軍側には与したが、譜代と呼んだ徳川家じきじきの家来ではなかった諸侯を外様大名と呼んで峻別したが、その外様大名の最大の雄が島津の薩摩藩であった。
参勤交代で江戸と藩を行き来する諸侯の一行を「大名行列」と呼び、街道に「大名行列」がさしかかると、“したに(下に)、したに(下に)・・・”、すなわち、“最敬礼しろ!”と掛け声をあげて行進する。
もしも最敬礼しなかったら無礼討ちにあっても仕方ない。
イギリスの一般人4人が、よりにもよって薩摩の大名行列に出くわし、馬上から降りなかった4人の一人が無礼討ちに遭って殺された。
その結果、薩英戦争が勃発、薩摩は大英帝国の艦隊に完膚無きまでやっつけられたが、その後一転、薩摩は英国と友好関係を結び、延いては、薩長同盟のきっかけへと発展していったから、明治維新劇にとっては生麦事件さまさまである。
薩英戦争の講和交渉が友好交渉に発展していったきっかけが、英国の求めた賠償金の交換条件として薩摩側が出した提案だが、これがあまりにも胡散臭い。
賠償金25000ポンドを支払うかわりに、蒸気艦船を売ってほしいと申し入れたというわけだ。
こんな破天荒な提案を薩摩側から出されたと通史は語っているが、果たして史実はどうだろうか?
元祖帝国主義であり、百戦練磨の英国からしか生まれ得ない発想である。
まさに、
生麦事件まで、大英帝国の仕掛けだったのか?
少なくとも、生麦事件を表面上は被害者側にあった英国が、見事に悪用したのではないだろうか?
薩摩と長州が手を組むシナリオ、つまり、薩長連合を実現させたのは坂本龍馬である、とする通史こそ、あまりにも荒唐無稽な話であろう。
極東の島国から一歩も出たことのない原日本人が、ましてや、徳川幕府260年間、日本という国の観念すら持たず、自国の藩だけが唯一の世界観だった原日本人が、他の藩と共同して日本国のために外国と張りあう発想など生まれようがない。
明治維新の元勲と呼ばれた連中の決まり文句になっていた攘夷思想も、原日本人には起こり得ない発想であろう。
まさに、
「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)」と隋の皇帝に送った書簡の送り主の聖徳太子が、明らかに、日本以外の地を知っていなければ起こり得ない発想が、生麦事件の真相は、英国の深慮遠謀であった逆証明になっている。