快楽主義者

宗光は労咳を患っていたにも拘わらず、いわんや政治犯とはいえ刑務所生活を5年以上もしながら、53才まで生き延びることができたのは奇跡としかいいようがない。
紀州から江戸に出てきた安政5年(1858年)に、井伊直弼により安政の大獄事件が起こるが、まだ14歳だった宗光に政治の関心はまったくなかった。
寧ろ、性に対する目覚めの成長の方が著しく、年齢を詐称して吉原通いをしていたため、師事していた安井息軒も呆れ破門にしたほどの俗物だった。
この当時の吉原通いが原因で、当時、死病と恐れられていた労咳を遊女からうつされたのである。
労咳に一生苦しめられた人物に戦国時代の英雄武田信玄がいる。
“英雄色を好む”という格言があるように、“色を好む”と必ず見舞われるのが労咳という一種の性病であり、業病と揶揄されても仕方ない。
現代でこそ「化学療法」として結核菌を抑え込み死滅させるストレプトマイシン、リファンピシン等の抗生物質が治療薬として結核患者に投与され完治するが、当時の労咳には養生し、風通しの良い場所で、安静にし、十分な栄養を取るということしか、当時死病とされていた労咳の治療方法はなかった。
高麗人参という高価な薬草が労咳に効果あるといわれていたが、親指ほどの大きさの高麗人参が一両(現在の価値で10万円)したから、よほど裕福な者しか高麗人参を手に入れることができなかった時代である。
いつの時代でも、健康は金で買うもので、病気は貧乏に付きものなのが、人間社会の常識のようである。
庶民の間では労咳は一種の気の病からくるもので、パッと憂さを晴らせば病も治るなどという風潮もあり、江戸の若者たちは吉原などに通いつめることもあった。
結核菌を保有した者が遊女を抱き、そして、遊女が労咳の客からうつされ、そしてその遊女から別の客へと結核菌が流れる・・・という具合に当時は、遊郭、岡場所などが労咳の坩堝だった。
ところが現代でも典型的なプレイボーイだった宗光に亮子という伴侶がいたのは、奇跡を超えて恣意的とすら思える出来レースだ。
現に、
宗光生前時に、妾に生ませた子が発覚し、宗光の死後、亮子が育てるという始末。
長州ファイブと並び称せられる薩摩ナインティーンの代表格である森有礼は、正妻と愛妾が同じ邸内に住むことが常識だった当時、慶応義塾創始者であり、「学問のすすめ」の著者である福澤諭吉と共に、愛妾の慣習を打破する運動を展開していたのは有名な話である。
福澤諭吉も「学問のすすめ」の中で、“正妻と愛妾が一つ屋根の下で暮らすのが当たり前のように思っているこの国は、畜生以下である”とまで言いきっている。
江戸時代の「大奥」は、欧米社会にとっては原始社会以下に見えたようだ。
そういった西洋と日本の価値観の差が、ある事件を惹起し、真相・明治維新へと引き継がれていくのである。