第四十三章 空白の16年

人類の歴史には必ず空白の期間がある。
二十世紀の空白期間は、1929年8月6日から1945年8月6日の16年間だった。
世界大恐慌が発生したのは、1929年10月24日のニューヨーク株式市場の大暴落がきっかけだと言われているが、実際には、同年9月3日のダウ平均381ドル17セントの最高値を付けた時から始まったのであり、大暴落の引金を引いたゼネラルモーターズの足下に火がついたのが、同年8月6日の火曜日のデトロイトだ。
世界最大の自動車メーカーの内部で権力闘争が起こったのが直接の引金だった。
ドイツのメルセデスベンツが世界初の自動車を発明したが、一般大衆の手の届く自動車をつくったのはアメリカのフォード社であり、1920年に世界最大の自動車メーカーになり、世界産業の中心としてモータライゼーションをつくったのはゼネラルモーターズ社である。
ゼネラルモーターズの中興の祖と言われたアルフレッド・スローンが発案した世界初の事業部制度が行き詰まり、フォード社の二の舞になりかけた日なのである。
そして1945年8月6日は言わずと知れた、アメリカによる広島への原爆投下の日である。
二十一世紀の空白期間は、2033年12月31日から2049年12月31日までの16年間だ。
2033年12月31日は、東京に鉄の雨が降った日であり、2049年12月31日は、月の想いである「テンシ」が四国の剣山に降り立った日である。
その時、「テンシ」の化身である鬼神冬子が、時には島田一郎として、そして田島八郎として、石嶺リエと共に四国剣山を眺めていた日である。
リエにとっては2033年12月31日であり、八郎、つまり、鬼神冬子にとっては2049年12月31日であった。
4=16年であり、4秒の差が二人の垂直時差だ。
いわゆる、タイムトンネルの長さが、トンネルの入り口では16年の時差であったのが、出口では4秒の時差だけになってしまうのである。
地球上だけで生活している者にとっては、一年=365日、一日=24時間という水平時間が唯一の時間と思い込んでいるが、他の星に行けばまったく異次元の時間になってしまうことを人間はまだ気づいていない。
いよいよ気づく時期がやって来たのである。
1905年。
アルバート・アインシュタインが特殊相対性理論を発表した。
奇しくも同じ1905年に、「シオン賢哲会合の議事録(プロトコール・シオンスキフ・ムドレーオフ)」の原稿がロシア人・エス・ニールスによって世に公に出された。
同氏の著書「近き将来に来るべきキリストの敵」の中において紹介されたのである。
著書の中で、同氏は言う。
「これはある婦人が、メーソン秘密結社の陰謀の策源地であるフランスの某地で開催されたメーソン結社の秘密会議の終わった直後、結社中最も勢力があり、且つ、又最も献身的にメーソン結社を指導している有力なる賢哲の一人から盗み取った『シオン賢哲会合の議事録(プロトコール・シオンスキフ・ムドレーオフ)』の写しである」
1915年。
アルバート・アインシュタインは更に一般相対性理論を発表した。
その結果、1921年、彼はノーベル物理学賞を受賞して、その翌年に日本にやって来た。
そして、京都大学から世界にメッセージを送った。

“世界の未来は進むだけ進み、
其の間、幾度か争いは繰り返されて、
最後の戦いに疲れる時がくる。
其の時人類はまことの平和を求めて、
世界的な盟主を崇めなければならない。
この世界の盟主たるものは
武力や金力ではなく、
あらゆる国の歴史を抜き超えた
最も古く、また、
最も尊い家柄でなくてはならぬ。
世界の文化はアジアに始まって、
アジアに帰る。
それはアジアの高峰、
日本に立ち戻らねばならない。
われわれは神に感謝する。
われわれに
日本という
尊い国を作って置いてくれたことを・・・”

世界的な盟主、つまり、独裁者が現れるというわけである。
アルバート・アインシュタインが特殊相対性理論を発表した年である1905年に、エス・ニールスが出版した「近き将来に来るべきキリストの敵」の中で紹介された『シオン賢哲会合の議事録(プロトコール・シオンスキフ・ムドレーオフ)』の第一章が奇しくも言う。

第一議定書

我々は空漠たる冗説を措いて、各思想の根本意義を検討して、比較法と推理法とで其の事態を攻究する事にしよう。
斯くあるが故に余は、我々の計画の組織をユダヤ人と非ユダヤ人との両見地から平易且つ明瞭なる言辞を以って左に述べて見よう。
善良な性質の人間よりは、先天的不良性の人間の方が数において勝っている。それ故に学理上の議論によるよりは、強制と威嚇とを用いた方が、遥かに政治上の好成績を挙げるものであると言う事を忘れてはならぬ。
人間は皆権力を求めんとして懸命怒力する。誰でも出来さえすれば独裁者たる事を欲する。従って自己の利益の為に一般の幸福を犠牲にする事を敢えてしない者は極めて稀である。
人間と呼ばれる猛獣を抑制しつつあったものは何者ぞや。今日まで人間を指導して来たものは何者であるか。社会構成の当初に当たって人間は粗野にして盲目的なる力に服したが、後には法律に服するようになった。しかし此の法律も又仮面を被った力に外ならない。これによって余は結論する時、自然の法則によって、権利は力にあると言わなければならぬ。
政治上の自由は思想であって事実ではない。自分の属する党派が、権力を掌握している他党を倒壊せんがために、思想という好餌を以って民衆の力を自党に引き付ける必要を感ずる時は、此の自由の思想を巧みに適用する術を知らねばならぬ。
若し政敵自身が此の思想、所謂自由主義に感染して、此の概念の為に自己の勢力を放棄しようとするならば、右の仕事は極めて容易になる。茲に於いてわが理論は明白なる勝利を得る。即ち政権の手綱が緩みて地上に垂下するに至らば、存在せる自然の法則によって他の新しい手が直ちにこれを捉えて掌握するものである。
何とならば盲目的なる民衆の力は一日たりと雖も指導者なくして存在する事は出来ないから、自由主義に因って弱められた古い権力に代わって此所に新しい権力が登場する。
現今においては自由主義なる為政者に代わって黄金の権力が出現した。かつて信仰が人心を収攬して世が治めらていた時代もあったが、自由の思想は実現し難いものである。何となれば何人もこれを適度に利用し得ないからである。人民に暫時でも自治を許して置くならば、此の自治は忽ちに放縦になるのみである。此の国家は動乱の巷と化してしまう。
さて、自己の疾患に因って崩壊するであろうと、其の内乱の為に外敵の手中に陥るのであろうと、兎に角国家が滅亡に瀕するに至るならば、我が掌中のものとなる。それは我々のみが自由に為し得る金権は、その時国家に対して触手を伸ばすが、政府にして救わるる所もなく、奈落の底に落ち込むことを肯ぜさる限りに於いては、否応なしにそれに取り繕らなくてはならないのである。
自由主義の立場から、かような考えを不徳義であると思う者があれば、余はその人に次の如く反問する。『ある各国が内外に二敵を有する場合、其外敵に対して如何なる戦争の手段を用いるとも、例えば作戦の計画を敵に知らせず、夜陰に乗じて優勢な軍勢を以って襲撃することを許されて、而も不道徳と非難されずに済むとすれば、社会の秩序と安寧とを齎す悪質の敵に対しても同様の手段を執ることが、何故に不道徳と称せられねばならないのであるか?』と。
矛盾と云う事は、例令それが無意味に見えようとも、浅薄な判断しか出来得ない大衆にとっては面白いものであるが、かような矛盾の可能性がある時、其民衆を理知的訓誨や説得によって、大衆をうまく指導して行くと云うような事は、筋の通った健全な考え方をする人ならば決して期する事は出来ない。専ら浅薄な情熱、迷信、習慣、伝統、感傷的理論によって動かされ易い大衆と云う者は、党派的分裂に支配され易いものであるが、此党派的分裂なるものは、全然賢明なる訓誨に基づいてなされる妥協をもすべて不可能にしてしまうものである。大衆の決定はすべて偶然的な多数或いは人工的に集められた多数によってなされるのであるが、此多数なるものは、政治上の機密に通じない為に不合理極まる決議をなし、斯くて政治の中に無政府状態が芽を萌さす事となるのである。
政治と道義とは全く没交渉である。道義を基礎とする為政者は政治家でない。夫れだから其位置を持続する事が出来ぬ。苟くも為政者たらんとせば、奸策偽善を弄せねばならぬ。国民の美点即ち天真爛漫と正直とは政治にとりては罪悪であり、禁物である。其故は、これ等は最強の敵にも勝って確実に王位を転落せしめるからである。これ等の特性は歓迎すべき非ユダヤ国の特徴となっても一向差し支えはないが、われわれユダヤ人は決してこれを指導基準となしてはならぬ。
我々の権利は強さに存する。『権利』なる語は抽象的概念であって、何物によっても証明されていない。その意味する所は、『わが欲する所のものを吾に与えよ。そは我れが汝達よりも強きことを証せんがためなり』に過ぎないのである。
権利は何処に始まるか?そして何処に終わるか?権力の組織が宜しくなく、自由主義の為に生じたる無数の権利によって、法律も支配者も無力となっている国家において、余は新しい権利を汲み出す。即ち強者の権利によって躍進し、あらゆる現存の秩序、規定を破壊し、法律を侵し、凡ての施設を改造し、『自由主義』のために自ら進んで自己の力の権利を譲渡した者共の上に主権者となる権利を汲み出すのである。
現在においては非ユダヤ人各国のあらゆる権力が渾沌として動揺しているので、我々の権力は其無敵性において他の権力に比し断然頭角を抜いている。何となれば、我々の権力は如何なる陰謀奸策も之を葬り去り得なくなる程に強力化されるまでは、表面に姿を現わす事はないからである。
我々が目下止むを得ず行いつつある一時的な悪事は、やがて自由主義によって破壊された所の国民的生存の規則的運行を旧に復せしめ得べき揺るぎなき統治と云う善事を生むであろう。結果は方法を浄める。それ故に我々は我々の計画においては、善なる事、道徳的なる事よりは、寧ろ必要なる事、有益なる事に注意を向けよう。
我々の前には、戦術の法則に因って攻撃線を描いた計画がある。もし我々がこの線から離れるとすれば、それは数世紀に亘って築き上げた事業を台無しにする危険を必ず伴うのである。
我々の活動に対する有効な計画を立てようと欲するならば、我々は大衆が下賎、無定見、無節操であることを認識しなくてはならぬ。のみならず彼等が自己の生活や自己の幸福の諸条件を了解し、またこれを重要視する能力を欠いていることをも考慮に入れなくてはならない。尚我々は、大衆の力は盲目で、非理知的で、判断力が無く、従って左にも右にも耳を傾けるものであることに注目しなくてはならない。
盲人が盲人達の案内役を勤める時、必ずや共に滅亡の淵に陥って了う。従って大衆の中の者共又は人民の中からの成り上がり者は、如何に多才の者であろうとも、政治上の知識を有せざるが故に、一度指導者として登場する時には、必ずや全国民を滅亡の淵に陥れないではおかぬのである。
年少の時から独裁政治の教育を受けた者のみが、政治のイロハを以って綴られた言葉を理解し得るのである。
自分自身に、換言すれば自分自身の中から出た成り上がり者に一任された国民は、権力と名誉との争奪によって生み出される党争及び党争から生じる騒乱によって自滅する。大衆が平静にまた競争なしに判断したり、或いは個人的利害との混同を許さぬ国事を実現したりすることが可能であろうか。また大衆は外敵に対して国を防ぐことが出来るであろうか。そんなことは思いもよらぬことである。何となれば群衆の頭数と同じ数の部分に分裂した計画は統一を失ってしまい、遂に訳の解からぬ実行不可能のものとなってしまうからである。
独り独裁君主のみが国家機関の機構の総てを正しく配分したる秩序を以って、諸計画を広く且つ明瞭に案出する事が出来る。従って一国の利益の為に最も合理的なる統治は、責任ある一個人の手に集中されねばならないのである。絶対的圧制政治なしには文明は存続し得ない。文明は大衆に依存するものではなくして、如何なる人間であろうと、兎に角彼等の指導者となる者の事業である。大衆はあらゆる機会に自己の野蛮個性を発揮する野蛮人達より成り立っている。大衆は自由を手中に握るや否や、それを無政府状態に変えてしまうが、これは野蛮の最頂点をなすのである。
無制限の飲酒は自由と共に人の与えられている権利であるが、其の酒に漬かり浸って常意識を失っている動物(非ユダヤ民族)を見よ、我々は、わが党の士に之を許してはならぬ。非ユダヤ人等は酒に乱心し、また其青年は我々の謀者の鼓吹宣伝している古典主義−ギリシャ語とラテン語と古代文化を主としての亡国的教育主義−と早熟の淫乱とに因って頽廃しつつある。我々の謀者は非ユダヤ人の富豪の家庭に入り込んでいる。即ち男女家庭教師や家僕や番頭や、また享楽場に出入りするユダヤ人の女性は、所謂社交界の花形となって非ユダヤ人の淫蕩享楽贅沢を故意に幇助しているものである。
我々の合言葉は力と偽善とである。政治上の問題で勝ちを制するのは何と云っても力であり、国家の事業に携わる人士に必要な材能ある者に此の力が蔵せらるる時は殊に然りである。或る種の新しき力の代表者の其王冠を蹂躙させる事を欲しない斯様な政府の為には、圧制は其原則たるべく、奸策と狡猾との偽善は其基準たるべきである。此の悪徳こそは目的−善事−を達成する唯一の手段である。それ故に我々の計画の遂行に役立ちさえすれば、暗殺、買収、詐欺、裏切り等に決して尻込みしてはならない。政治上では他を屈服させ、また権力を奪取するに必要な場合は、躊躇する事なく他人の財産を奪取する事を心得ていなければならない。
平和的征服の道を取る我政府が、血醒さき戦争という恐怖すべき事を避けて、その代わりに目立つことは少ないが、しかし、それだけに一層効果の多い死刑の法を用いるのは当然であって、これに因って盲目的服従を余儀なくせしめる所の恐怖政治を維持せねばならないのである。公正にして而かも仮借なき峻厳さは、国家の権力の最大要素である。単に利益のため許りではなく、殊に勝利のためには、義務としても圧制と偽善とを我々は固執しなくてはならない。冷静なる打算の理論は、それによって適用される手段と同じく強力である。それ故に我々は、之等の手段そのものによってというよりも、むしろ峻厳の理論によって勝利を得。あらゆる非ユダヤ政府を我々の超政府の許に屈服せしめるであろう。あらゆる背反を除去するためには我々が仮借なく事を行うことを知らしむれば足るのである。
我々が自由・平等・四海同胞なる語を民間に放ったのは既に古代の事である。それ以来、之等の標語は此の好餌を目指して飛来する無意識の鸚鵡(おーむ)によって何度となく復習され、此の好餌を啣(くわ)い去ると同時に、世界の幸福と、さきに群衆の圧迫より防護されていた個人の真の自由とを破壊して終った。
所謂賢明なる非ユダヤ人の識者と云わるる人々でさえも、難解の謎の如き此の言葉の抽象的なる意味を正解し得る事が出来なかったし、また其の内部に含まれている矛盾を勿論看破する事が出来なかった。彼等は悲しい事には、自然なるものが平等を知らず、又其中に自由があり得ないものであり、由来自然其のものが、理性と、性格と、才能との不平等と其自然の法則とに対する屈服とを造ったものである事に気付かなかった。
彼等非ユダヤ人の知識階級は、人民大衆なるものが、盲目の力であるものなる事を少しも考慮しなかった。また、国家の政治の為に大衆中から選ばれた成り上がり者共も民衆と同様盲目である事を考慮せず、またマッソン結社の奥義を授かった者は例令如何なる馬鹿者でも、統治が出来得るものであるのに、奥義を授からぬ者は、如何に非凡な知者であろうとも、手腕家であろうとも、政治上何をも解する事が出来ない事などを考慮しないで、彼等非ユダヤ人は、これ等すべてを看過しているのである。
兎に角、世襲的君主政治の拠る所は何であるかと言うなれば、政治上の秘密が父子伝来となっていて、王家の人々のみに知られるが、其の秘密は何人によっても被支配民に洩れる事が絶対なかった。しかし庶政の真相を世襲的に継承する事の意味は時間の経過と共に失われて行った。是がそもそも我々の事業の宿望を達成する上に大いに役立つのであった。
自由・平等・四海同胞なる語は、盲従的な我々の謀者によって世界の隅々にまで宣伝せられ、幾千万の民衆は我々の陣営に投じ、此の旗織を狂喜して担ぎ廻っている。然るに実際を言うと、此の標語は到る所平和安寧一致を破壊し、国家の基礎をも覆し以って非ユダヤ人の幸福を侵食する獅子身中の蟲である。之が我々の勝利を促進したと云うことを諸君は後日首肯さるるであろう。これが重要な切り札を我々の掌中帰せしめた。切り札とは特権階級の撲滅である。換言すれば、我々の強敵即ち国家国民の防護者たる非ユダヤ人の自然的貴族の没落した廃墟に、金力と云う我々の知識階級の貴族を元首として据えた。此の新貴族の資格を我々は我々の掌中にある富と我々の賢哲によって動かされている科学に置いたのである。
我々の勝利は尚我々に必要なる人々と交際するに当り、常に人間の弱点を捉うるによって容易に獲られたのである。弱点とは即ち人間が計算高い事、物質的欲求を充たす為貪欲飽くなき事である。これ等の弱点を一つ一つ取って利用せば、人間の独立的主動力を全く殺滅し、其意旨をば買収者の自由に一任せしむる事が出来る。
自由と云う抽象的標語は、政府なるものは国家の持主たる人民の手代に過ぎぬから、幣履の如く之を交代せしむる事が出来るとの観念を群衆に与えた。
人民が代表者を交代し得ると云う事は、即ち我々の思う侭に代表者を左右する機会を我々に与えたのである。
『シオン賢哲会合の議事録(プロトコール・シオンスキフ・ムドレーオフ)』第二議定書の中で、科学を利用して一般大衆に盲目的信用を齎せしむと主張しているのは、一体どういう意味なのであろうか。
アインシュタインが相対性理論を発表した同じ年に、この主張が公にされたのは象徴的過ぎる。
“始終我々の新聞雑誌を利用して、この命令に対する盲目的信用を鼓吹する”
とはノーベル賞受賞の喧伝とするなら、ノーベル賞の正体は一体何処にあるのだろうか。
20世紀の100年間、この理論を金科玉条のように盲信してきた科学者とは一体何者であるのだろうか。
否、科学自体が一体何者であるのだろうか。
21世紀をこの問題に決着をつける世紀にしなければ、人類の未来は最早ないであろう。

第二議定書

我々の目的にとっては、戦争が出来るだけ領土的利益を齎らさないようににすることが絶対的に必要である。そうすれば戦争は経済的領域に移されることになるが、この領域においては、諸国民をして我々の援助において我々の優勢の威力を認識させることが出来る。かかる事態によって両交戦国は、世界各国に普及している我々の代理店の手中に陥ってしまう。而も我々の代理店は幾百万の眼を自由に駆使して、国境によって活動を阻止されることは決してないのである。その時我々の国際法は本来の意味に云う所の諸国民の法律を抹殺して、現在諸政府の民法が国民相互の関係を律している如くこれ等諸国民を統治することになるであろう。
奴隷的能力を有するが為、我々が一般人民中から選んだ行政官吏は、決して統治の準備を有する者ではないであろう。それ故に彼等は、我々の将棋においては容易に『歩』に堕してしまい、幼児から全世界支配のための教育を受けていた所の、学識と天才とのある我々の専門的顧問の掌中に全く収まって了うであろう。諸君も知られる通り、之等の専門家はその政治上必要なる知識を我々の政治的計画、歴史の経験、刻下各時事の観察等から取ってきたのである。非ユダヤ人は、歴史を基礎とする冷静な観察を練ることを知らず、専ら理論上の旧弊に囚われて、其結果に対する批判的工作を忘却している。それ故に我々にとっては、彼等のことを意に介することは無意味である−たとえ彼等が、いよいよの時が来る迄享楽に耽ろうと、新たなる享楽を希望として生きようと、過去の享楽を追憶して生きようと、そんな事は問題ではない。肝要なのは、科学の命令(理論)だとして、我々が彼等に吹き込んでおいたものが彼等の為に最も重大なる役割を演じていればよいのである。この目的の為に我々は、始終我々の新聞雑誌を利用して、この命令に対する盲目的信用を鼓吹する。
非ユダヤ人中の知識階級は自己の知識を誇りとして、『科学から』得た知識を巧妙に実現しようとするのであろうが、然もそれの知識を論理的に吟味もせず、またその知識なるものが、人間を我々に必要な方向に教育するため、我々の密使によって作り上げられたものであることには気がつかないのである。

我々の主張を根拠のなきものと思ってはいけない。我々が仕組んだ所の、ダーウィン、マルクス、ニーチェの教説の成功に注意なさるがよろしい。非ユダヤの人心に及ぼした之等の教説の破壊的作用は、少なくとも我々には明白になっていなくてはならない。
政治と行政とにおいて失敗を招来せぬために、我々はよく時代思想と諸国民の国民性及び傾向等を考慮に入れなくてはならない。我々の計画系統は、我々が接触する諸国民の民意に応じて其機構の部分を種々に慮理せねばならないが、その永続的成功はそれを実際に適用するに当たって現在の事情との連絡を保ちつつ過去の成果に其基礎を置く時において始めて其勝利を期待し得られるのである。
現代各国家の手中には、民間思想の動向を創造する一大勢力がある。之は即ち新聞雑誌である。新聞雑誌の役割は国民の要求を指示し、世論の声を伝え、不平不満を発表し且つ之を創造するにある。言論の自由の勝利は新聞雑誌に胚胎する。然るに各国家は此の勢力の活用法を知らぬから、それが為に我々の掌中に帰したのであるが、新聞雑誌によって我々自身は背後に隠れていつつ此の偉大なる勢力を得たのである。
これに因って我々は黄金を我が手中に収め得たのである。しかし、それが血と涙の流るる中から取り入れたものである事は云うまでもない。今日に至るまで多くの我が同族を犠牲にして、われ等は救われたのである。然し我々側の犠牲一人は、神前において非ユダヤ人千人に値するのだ。
1945年8月6日。
人類史上はじめて人間の住むど真ん中に原爆が投下された。
二十世紀の空白の16年の幕切れに相応しい出来事だった。
その瞬間(とき)から、世界の様相は一気に変わっていったのである。
世界の主役が宗教から科学に取って代わられた。
人類の文明の歴史は、古代から始まり、中世、近代を経て現代に至っているが、古代、中世の文明の主役は宗教であった。
近代幕開けの三種の神器であるルネサンス、宗教改革、産業革命によって、その主役の座は宗教から科学に移ったかに見えたが、実はそうではなかった。
宗教の力は、依然その後も堅持されていたのである。
産業革命とは、17世紀から18世紀前半に掛けての第一次産業革命、19世紀半ばから後半に掛けての第二次産業革命に分けられるが、第二次産業革命の方が圧倒的な発明・発見が為され、宗教が科学に本格的に取って代わられたが、実用化にまで至ったのは、1945年4月6日、つまり、二十世紀の空白の16年の幕切れの日以降であった。
本格的な科学の胎動は原爆の実用化で以って始まったのである。
科学技術の発展は学問研究で以って為されたのではなく、人殺しの道具、いわゆる、大量破壊兵器の開発で為されたのだ。
宇宙開発の途中で多くの発明・発見が為されたのと同じである。
宇宙開発は決して学問研究ではない。
宇宙開発競争は戦争の一形態に過ぎないのだ。
結局の処、科学は宗教と同じで、政治の一つの道具に過ぎないのである。
2049年12月31日、月の想いである「テンシ」が四国の剣山に降り立った。
二十一世紀の空白の16年の幕切れに相応しい出来事だった。
「テンシ」の化身である鬼神冬子が、時には島田一郎として、そして田島八郎として、石嶺リエと共に四国剣山を眺めていた日である。
リエにとっては2033年12月31日であり、八郎、つまり、鬼神冬子にとっては2049年12月31日であった。
4=16年であり、4秒の差が二人の垂直時差だ。
この垂直時差である4秒の差こそ、16年=24の指数である4だ。
東京に鉄の雨が降った時と、広島と長崎に原爆を落とされた時との時差でもあるのだ。
16年の指数4秒の時差の間に、ようやく、新しい世界の出る芽が決定されるのである。
人間の感覚では16年が、宇宙レベルでは4秒に過ぎない。
その関係は、地球とその表面に付着している生きものの関係にも適用されるようだ。
更に、潜在能力の発揮度にも比例する。
猿の霊長類が猿類(アウストラロピテクス)に変貌した時点で、潜在能力の発揮度が先ず落ちた。
メスが女性になった黎明期である。
猿類(アウストラロピテクス)が人類(ホモサピエンス=マンカインド)に変身した時点で、潜在能力の発揮度が更に落ちた。
オスが男性になった黎明期である。
人類(ホモサピエンス=マンカインド)が人間(ヒューマンビーイング)に変節した時点で、潜在能力の発揮度が更に落ちた。
オス社会の黎明期である。
その結果、人間は潜在能力の発揮度が20%以下になってしまった。
更にそれに拍車を掛けたのが文明という化け物だ。
文明という化け物の正体は他でもない、我々人間が盲信してきた宗教と科学である。
ドイツのある哲学者が言った「軸の時代」が働いた時期がそれぞれの黎明期に当たるわけだ。
個別意識の更に下にある地球意識という集合意識が強く働いた時期が「軸の時代」というわけである。
計算上では二十一世紀が「軸の時代」の軸になる世紀になる。
人間の感覚では16年の倍数になり、16年*50=800年が「軸の時代」のサイクルになるが、宇宙レベル、つまり、地球レベルでは、高々、4秒*50=200秒=3分20秒に過ぎない。
前々回の「軸の時代」の締め括りとしてイエス・キリストが登場してから、月の「想い」である「テンシ」すなわち鬼神冬子が登場するのに、高々、200秒=3分20秒しか経っていない。
愚かな人間は再びイエス・キリストを十字架に架けるのであろうか、その布石は彼女の父親の鬼神四郎が既に打っておいたのであるが・・・。
2000年前に、人類は足で正しく立って生きている人間を血祭りに上げ、挙句の果てに、十字架に架けて殺した。
自分たちが頭で立って生きているから、足で立って生きている人間が逆さまに見えたのに、自分たちが足で立って生きていると錯覚したため、足で正しく立って生きている人間が逆さまに見えたのである。
その結果、十字架に架けた。
それなら、十字架に逆さに架ければいいものを、足を下に頭を上に正しく十字架に架けたのはどうしたというのだろう。
どうやら、頭で立って生きている人間は、足で正しく立って生きている人間が登場すると十字架に架けたいらしい。
しかも、正しい十字架の架け方で殺してしまう。
地動説を唱えたコペルニクスやガリレオを十字架に架けようとした大衆は、やはり頭で立って天動説を信じている人間だった。
人類は、四本足の生き方から二本足の生き方に変わることによって、大脳が発達して知性を獲得したはずなのに、殆どの人間が頭で立って生きているなら、頭の位置は四本足の生き方の時より下がり、大脳は退化しているはずだ。
大脳には何重もの皮があって、頭の位置が相対的に高くなると、地球の重力の影響が軽減されて、木が天(太陽)に向かって伸びていくように、新しい皮が次から次へ発生していく。
哺乳類には大脳古皮質があるのは、両生類や爬虫類よりも頭の位置が高い生き方をしたからである。
両生類や爬虫類には大脳古皮質がなく、大脳旧皮質しかないのがそのことを証明している。
生きものの進化は頭の位置の変化に関わっているわけだが、地球の重力の影響に深く関わっていることを示唆している。
地球の重力の影響が小さくなると、生きものの知性は進化する。
地球の重力の影響が大きくなると、生きものの知性は退化する。
このことは何を意味しているのか。
地球の重力の影響が小さくなることは、地球とより離反化することだ。
地球の部分観になることだ。
自己が生きるということだ。
地球の重力の影響が大きくなることは、地球とより一体化することだ。
地球の全体感になることだ。
自己が死ぬということだ。
人類が死を知って、死を怖れるようになったメカニズムである。
この事実に気づいた人間だけが、正しく足で立った生き方をしようとするのだが、気づいていない頭で立った生き方をする人間には理解できないで、どんどん退化していくのである。
知性には、進化する知性と、退化する知性の二つがあることに、人類は二十一世紀には気づくことになるだろう。
2000年前の人間の数はおよそ3億だった。
足で立っている人間の数はおよそ30だった。
1000万人に一人の割合だ。
当時の日本人の数はおよそ100万人だったから、足で立って生きている日本人はいなかった。
日本人の数が1000万を超えたのは平安時代に入ってからで、聖徳太子の時代でも500万人弱だったから、聖徳太子が渡来人であることは間違いないだろう。
足で立って生きる日本人が平安時代に入ってはじめて誕生した。
それが空海だ。
聖徳太子が空海を生み落とす土壌を事前につくったのだ。
聖徳太子と空海は同時代の人間ではないのに、聖徳太子居る処に空海が必ず居るのは、こういった「軸の時代」の意識が地球レベルで働いたからである。
世界に目を向ければ、イエス・キリストがやはり中心に「軸の時代」の意識が働いている。
ペルシャにゾロアスターが誕生したのも、サウジアラビアにマホメットが誕生したのも、インドに釈迦が誕生したのも、ギリシャにソクラテスやプラトンが誕生したのも、中国に孔子・孟子や老子・荘子が誕生したのも、すべては、イエス・キリストを中心にした「軸の時代」の意識が働いた結果である。
イエス・キリストと聖徳太子が同一人物視される根拠が決定的であるのは、こういった観点からである。
地球上のすべての生きもの、つまり、鉱物・植物・動物は悉く地球そのものに他ならない証明だ。
人類だけの歴史だなんてお笑い草である。
人間一人を個人だなどと定義することが、そもそもおかしい。
すべては同一体だ。
実際に存在するのは地球だけである、
地表で生きているすべてのものは、すべからく映像に他ならない。
部分観はすべて実在しない、映像そのものに他ならない。
全体感で誕生してくる生きものは、1000万人に一人の割合だ。
現在の人口が90億に達しているから、足で立って生きている人間がおよそ900人ということになる。
現在の日本の人口がおよそ6000万人だから、足で立っている人間がおよそ6人というわけだ。
二十世紀の空白期間は、1929年8月6日から1945年8月6日の16年間であり、先ず、世界大恐慌が発生した。
1929年10月24日のニューヨーク株式市場の大暴落、その前の9月3日のダウ平均381ドル17セントの最高値を付けた時から始まった。
ゼネラルモーターズの足下に火がついたのが大暴落の引金であり、その引金を引いた日が、8月6日の火曜日のデトロイトだった。
世界最大の自動車メーカーの内部で権力闘争が起こったのが直接の引金だ。
そして空白の16年を締め括ったのが、1945年8月6日の、アメリカによる広島への原爆投下の日である。
二十一世紀の空白期間である、2033年12月31日から2049年12月31日までの16年間。
2033年12月31日は、東京に鉄の雨が降った日であり、2049年12月31日は、月の想いである「テンシ」が四国の剣山に降り立った日である。
その時、「テンシ」の化身である鬼神冬子が、時には島田一郎として、そして田島八郎として、石嶺リエと共に四国剣山を眺めていた日である。
二十世紀の空白期間をつくった連中が、再び、空白の16年を二十一世紀にも惹き起こし、最終仕上げの段階に入ったらしい。
最終仕上げを、四国の剣山で実行しようというわけだ。
『シオン賢哲会合の議事録(プロトコール・シオンスキフ・ムドレーオフ)』の第三章が奇しくも言う。

第三議定書

今日余は諸君に対し我々の目的の完成は数歩の眼前にあると報道し得る。余す所の距離は僅少である。我々の辿り来た道は、わが民族の象徴たる神秘的蛇の輪を結合せんとしている。此の輪の結合せらるる時こそ、全欧州諸国は頑丈な箍で締め付けられた如うになるであろう。
現代の憲法の秤皿は間もなく転覆するであろう。何故ならば、我々はその秤を、それが安定しないようにと不正確に仕組んで置いたからである。我々は秤の支柱が磨滅してしまう迄其秤が動揺を止めぬように仕組んだのである。非ユダヤ人は、秤の支柱を充分丈夫に鍛えたと思い、秤がやがて釣り合いを取るのであろうと期待していた。然るに秤の支柱なる王者等は、かの無制限且つ無責任な権力に有頂天になって、あらゆる愚挙を敢えてする自己の代表者等によって隠蔽されている。然も彼等がこの無制限且つ無責任な権力を獲得するのは、宮廷内に侵入した恐怖的行動即ちテロに依ってである。為政者等は人民に接近し、其社会内に入ることが出来ないので、人民と協議することは出来ず、また権力を求める野心家等から身を守ることも出来ないのである。我々の策謀した離間策は、目の見える主権者の力と盲目的なる大衆の力とを引き離したので、両方共その意義を失ってしまっている。何故ならば、どちらも一方だけでは、杖を失った盲人にも等しく無力であるからである。
権力を愛する者を刺激して、権力を濫用せしむる為には、我々は不覇独立を獲んとする彼等の自由主義的傾向を鼓吹して、あらゆる勢力を対立せしめた。此の方面に向かって我々は凡ゆる計画欲を刺激し、各政党を武装し、政権をすべての功名心の目標たらしめ、各国を撹乱の巷と化した。やがて、到る所に騒動と財政の破綻とが起こるであろう。
蕪言を弄して盡くる所を知らざる饒舌家は、国会と行政庁の会議とを舌戦場と化し去った。大胆な新聞記者や、無遠慮なパンフレットの発行者等は、毎日行政官を攻撃している。権力の乱用は斯くて官庁の没落を誘致しつつある。而して五里霧中に彷徨する群衆の一撃の下に万事転覆するのであろう。
世界各国の非ユダヤ人は、奴隷制度又は農奴制度よりも遥かに強く貧窮の為に苦役に繋がれている。彼等は、奴隷制度や農奴制度からは兎に角解放される事が出来たが、しかし貧困からは絶対脱することが出来ない。我々は民衆のため名のみであって実際でない権利を憲法に挿入した。所謂『民権』なるものである。民権は只だ概念として存在し得るのみであって、決して実際に実現することは出来ないのである。
実際我々の命令や、我々の密使に選挙される人々の為にする投票に対して、我々の喰い残りと食卓から投げ与える一片のパンの外に、下層民が憲法より得る所のものは何もないとするならば、饒舌家が気炎を吐く権利を得る事や、新聞記者が事実を書くと同時にあらゆる愚論を書き並べる権利を得る事は、苦役の下に背が曲がる運命に翻弄さるる下層労働者に取って何の利害関係があろうか。共和制の権利は貧乏人に取っては皮肉である。如何となれば、日々の衣食に追わるる関係上其権利が利用することが出来ないで、雇主等或いは同僚等の結託に左右せられ、確実な常収入を失うからである。
貴族は人民の幸福と密接の関係ある自己の利益の為に人民の自然的保護者であり、又人民の扶養者であった。それを人民は我々の指導の下に撲滅した。今や人民は貴族の撲滅と同時に労働者に取って無慈悲な成り上がり者、詐欺漢なる富裕農民の圧迫の下に呻吟している。
わが社会主義的マッソン結社の主張する所謂一般人道博愛主義を口実として、常に援助を与えている社会主義者、無政府主義者、共産主義者より成る我が軍隊に参加することを労働者に勧誘する時において、我々は労働者をこの圧迫より救済する者の如くに仰がれるであろう。由来労働者の労役を利用して之を自己の権利と認めていた貴族は、労働者が衣食足り、健康頑丈ならむことを慮かった。我々はそれと反対に非ユダヤ人の衰退を謀るものである。我々の権力は労働者の慢性的栄養不良と体質虚弱とにある。如何となれば、之れによって彼等を我々の意思に従わしむるもので、彼等は自己の力を以ってしては我々に反抗すべく力も精力も見出すことが出来ぬからである。飢餓が労働者に対して資本の権利を揮はしむる事は、合法的の王権が此の権利を貴族に与うるよりも確実である。我々は生活難と之れより生じる嫉妬憎悪の念とを利用して群衆を動かし、其の手を借りて我々に進む道を遮る者を撲滅するのである。
我々の全世界の主宰者が戴冠する暁には、同一の手を借りて我々の主宰者に妨ぐる者を撲滅せん。
非ユダヤ人は、我々の科学的助言なしに物を考えることが出来なくなっている。それ故に彼等は、我々の世界支配が達成された暁に、我々が一歩も譲歩することなく確保するであろう所のものが如何に痛切な必要事であるかを認めていない。即ち小学校においては、唯一の真実な科学、何よりも重要な科学、換言すれば人生の機構即ち分業を要求し、その結果として人間が階級又は身分に分類されるに至る事を要求するような社会生活の機構に関する科学を教授しなくてはならない。また何人の頭にも必ず叩き込まねばならないのは、人間の目的がそれぞれ異なるが故に、人間の平等などは決して存在し得ないということと、法律に対しても人によりて其責任が一様でない、即ちその行動によって全階級の名誉を毀損する者と、これによって唯自分の名誉を傷つける外何人にも損害を及ぼさない者とでは、その責任も違って来なければならないと云う事である。
我々が非ユダヤ人に秘している所の、正当なる社会的機構学の教える所によれば予備教育と職業との間の不調和が人間苦の根源とならないが為に、職業の場所も労働も一定範囲の人間に限られるべきであって、もし国民が此学説を受け入れたとすれば、国民自ら進んで主権と主権が立てた国家秩序に服従するであろう。科学が現状の如くであり、またそれが我々が与えた方向を辿っているので、無知単純な人民は盲目的に印刷物を信じ、また自己に教唆された迷論を信ずるのみで、各階級の価値を解せざるが故に、自己の上にあると思われる凡ての階級に対して極度な憎悪と敵愾心を抱くのである。斯様の敵愾心はあらゆる取引及び工業を萎縮せしむる。経済的危機の襲来する時に至れば一層烈しくなるに違いない。この時我々は、一般的経済危機を惹起し、同時に全欧州諸国において労働者の失業大群を街頭に投げ出すであろう。そうすれば之等の大衆は其無知と単純な心持ちからして、幼少以来嫉視していた有産階級や資本階級の血を流すのを喜び、而して其者等の所有物を略奪破壊する事は考えるまでもない。
しかし此時において、我々の仲間は之等の大衆によって襲われる事は絶対ないであろう。何となれば、我々には襲撃の時刻が機敏なる我々の謀者によって予め判っているので、時機を失せず吾党の者の保護対策を講ずるからである。
我々はこれまで、進歩が非ユダヤ人を理性の国に連れて行くであろうと力説して来た。我々の強圧政治は、左様なるものであろう。何となれば理性の峻厳さによってあらゆる暴動を鎮圧し、すべての官庁より自由主義を根絶する手段を講ずるであろう。
民衆が自由の名の下に、自己に対するあらゆる譲歩と寛大とが眼前に展開して来るのを見て、彼等は自己を主宰者と思惟し、権力を獲得したものと妄想したが、しかし凡ての盲人と同様、予期せざる無数の障碍にブチ当たった。そこで指導者を見出さんと焦ったが、しかも旧制度に帰る事を思わずして、遂に権能を我々の足下に投げ出したのである。我々が『大革命』の名を付したフランス革命を想起せられよ。
此の革命準備の秘密は我々の能く知る所である。何となれば此の革命は実に我々の手の所業であるからである。
あの時以来我々は、諸国民を幻滅から幻滅へと導いているが、それは彼等が我々からも離反して、我々が全世界の王として準備している所の、シオンの血を亨けた専制帝王を歓呼して迎えるようにするが為である。
現代においては、世界的勢力としての我々マッソンは不死身である。何故なら、若し我々が或る一カ国から攻撃される事があれば、直に他の諸国家が我々の味方になってくれるからである。我々に独立不覇を与えてくれたのは、非ユダヤ諸国民の限りない卑劣さであって、それは権力の前には叩頭するが、弱者に対しては無慈悲で、過失には厳罰を加えても、犯罪は之を寛大に断罪し、自由な社会秩序の矛盾を我慢する事はしないが、大胆な専制政治の暴虐には殉教者となっても顧みぬ程の忍耐をもって対するのである。彼等はその最小なものに対してさえも二十人の国王の首も刎ね兼ねまじき程の権力濫用な現代の独裁なる首相に対しても忍耐している。
斯くの如き外見上一様なものと思われる出来事に対する大衆の態度が、終始一貫していないと云うことは、何を物語るであろうか。云うまでもなく独裁者等は自己の密使を通じて、国家を変革せんとする彼等の目的達成のためであると、人民に意識させるからである。そして其の目的とは人民の幸福、協同一致、平等の権利を実現する為に国家の基礎を危機に陥れるのであると云うのである。しかし斯くの如き
結合は我々マッソンの支配下においてのみ組織されるであろうと云うことは、勿論人民に告知さられる事は絶対にない。
斯くて人民は正義の人を有罪にしたり、有罪者を無罪にする。
また人民は次第に増長して、自らの欲する事は、総てなし遂げられるものと信じるようになるから、このような事情の下において人民はあらゆる着実な発展を破壊して、一歩一歩新たなる無秩序を喚起して進み行くのである。
『自由』なる標語は、人間社会をしてあらゆる権力と抗争せしめ、神及び自然の威力に対してすらも闘争せしめる。それ故に我々ユダヤ人が一度王位に就かんか、我々はこの標語を人類の語彙の中から抹殺しなければならぬ。何故ならば此標語は、大衆を恰も血を好む猛獣の如く化せしめる。動物的暴力の結晶であるからである。しかし之等の猛獣に給餌すると眠ってしまうから、容易に鎖に繋がれる事が出来るが、何時までも血を吸わせないでおく時は、彼等は眠らないで闘い狂うのである。
二十一世紀の空白期間である、2033年12月31日から2049年12月31日までの16年間に、世界でどんな事件が起こったのか、『シオン賢哲会合の議事録(プロトコール・シオンスキフ・ムドレーオフ)』の計画が如何に精妙であったかを検証してみよう。

第四議定書

あらゆる共和国は幾つかの発展段階を経るものである。第一段階は右へ左へとうろたえ廻る盲人のような気狂じみた行動が始まった最初の数日である。第二段階は人民煽動の時代であって、此処から無政府状態が生まれて来る。この段階は必ずや専制政治を到来せしめるが、之は最早公的合法的認知を受けていないものであるから、何の責任をも最早負うことはしない。そしてこの際に勢力を振るうのは、むしろ目に見えない未知の権力であり、或いは一つの秘密結社であるが、この結社は裏面で活動するものであるので、その手段の選択に当たっては何の拘束を受けることはないし、また到る処手先を忍び込ませるが、その手先を度々取り替えることによって、損すると云うよりもむしろ得をするのである。即ち、手代を度々取り替えることによって、長年の忠勤の報酬に金銭を支出するのを免れると云うことだけでも、既に儲けものなのである。
果たして誰がまた何がこの目に見えぬ所の力を倒す事が出来るであろうか。我々の此の力は取りも直さず斯くの如き性質のものである。即ち外面的はマッソン結社が我々の力と其目的を盲目的に隠蔽するに役立ち、またこの力の行動の計画、この力の所在さえ、民衆には常に隠されているであろう。
自由が若し敬神を根拠とし、服従を規定せる天地の法則に背反するが如き平等の観念を去った同胞主義に立脚する時は、国民の幸福を阻害することなく、国家組織の中に無害なるものとして存することが出来る。斯くの如き宗教と信仰とを持っている時は国民は地上における神の摂理に従い教会に統御せられ、謙遜、従順に精神的慈父たる牧師の指導に従うものである。それであるから我々は宗教の根底を覆し、非ユダヤ人の脳裡から神霊の観念を奪い取り、其の代わりに個人主義的打算利欲と肉体的享楽主義的欲求とを植え付けねばならぬ。
非ユダヤ人が之に気付かぬようにするには、彼等の心を商業と工業方面に向けねばならぬ。斯くすれば各国の非ユダヤ人等は眼中国家社会なく、唯々自己の利益のみを追い、利害戦に夢中になって、自己の共同の敵に気付かなくなるであろう。尚自由が徹底的に非ユダヤ人社会を破壊し滅亡さす為に、工業を投機の基礎の上に据え置かねばならぬ。斯くなると工業が地上から取得した物の悉くを手中に握っている事が出来ぬから、結局投機家の手に移る。換言すれば我々の金庫の中に流れ込んで来る。
優越を得んがための極度に緊張した闘争と、経済生活に対する衝動とは、絶望的なしかも悲惨極まる冷酷な社会を実現するであろう。否な既に実現したのである。
斯くの如き社会は高等政策と宗教とを全然忌み嫌うようになり、之を指導するものは、ただ利得打算即ち金力のみになり、金力によって享受出来る物質的快楽の為に黄金を完全に偶像化するであろう。そうなると非ユダヤ人下層民は積善をなすとか、或いは富を蓄えるの為ではなく、ただ特権階級に対する憎悪から我々に服従して、我々の権力闘争の相手である非ユダヤ人知識階級に敵対する事になる。

第五議定書

買収と贈賄の汚職が到る所に侵入し、富は巧妙なる奸策或いは虚偽の駆け引きによって得られ、徳義は自己の誠意によらず、ただ厳罰と酷法によって維持され、愛国心と宗教とは世界主義の為に殺滅せられている社会に、如何なる行政組織を設けたならばいいだろうか?余が以下諸君に説明せんとする専制政治に非ずして何であろう。我々は社会の一切の勢力を掌握せんが為に最も強力なる中央集権を設定せねばならぬ。而して我々は我々の臣下の政治全般を新法律によって機械の運転の如うに調整するであろう。此の法律は非ユダヤ人民衆の有していた寛怨と放縦とを片っ端から奪取するであろう。斯くして我々ユダヤ人の国家の特徴とする所は無制限の専制政治となり、我々に不平を云う反抗する非ユダヤ人があるならば、何時何所においても容赦なく打ち凝らすことの出来るようになるであろう。
余がここに説く所の専制政治は、現代の進歩に矛盾するものだと非難する者があるかも知れぬが、余は其反対する所以を諸君に証明しよう。
各国民は自国の帝王を仰ぐ事恰も神意の発露の如く崇敬していた間は、彼等は帝王の専制に服従していたが、我々が彼等に対して、帝王と離間さす為国民にも権利あるものなりとの思想を注入してから、彼等は帝王を普通の人間と何等異なるものでないと見るようになった。国民の眼中に帝王の頭から神選者たる栄光が失われ、我々が国民の念頭から神に対する信仰を奪った時、王冠の威力は地上に堕ちて終った。茲において我々ユダヤ人は其権力を公有物として取得したのである。
加之(しかも)、我々ユダヤ人は種々の理論を構成したり、巧言美辞を羅列したり、また社交の儀礼を用いたりして、非ユダヤ人の到底考えも及ばぬ諸種の誘惑手段を考案して、大衆及び個々の人間をユダヤ人の意のままに操縦する。此の頭脳手腕にかけては、我々ユダヤ人は全く専門家である。我々の行政の仕方は、極めて鋭い観察と分析とに基づき、また非常に巧緻な構想に基づいているので、何人と雖も我々とは太刀打ち出来るはずがない。我々の政治的計画の作成及び我々の秘密結社員の一致団結力との点においても、何人も我々と比肩する事は出来ない。独りジェスイット教団のみは或いは我々と比較され得るかも知れないが、然し我々は陰険なる奸策をめぐらし、彼等をして無知な大衆の信用を失墜せしめる事に成功した。そして此の成功を得られたのは、我々ユダヤ人がマッソン結社をつくって其の陰に隠れていたのに、彼等の方では目に見える国体をつくっているからである。兎に角、世界にとっては、誰に支配されるかと云うことは問題ではない。支配者がカトリック教の法王であろうと、シオンの血を受けるユダヤ人の専制君主であろうと何れでもよい、しかし神の選民たるユダヤ人にとっては、此の事は決してどうでも好い事ではないのである。
一時的には全世界の非ユダヤ同盟が我々を打倒する事もあろう。然し我々のこの危機に際しては、非ユダヤ国の間に抜くべからざる紛争の深き根底があって、間接直接に我々を保護していてくれるのである。我々は二千年に亘って非ユダヤの心に、煽動培養し来った個人的並びに国民的打算又は民族的並びに宗教的憎悪を彼等の間に対立せしめた。ために、何れの国家も何処からも援助を得ることは出来ない。何となれば、各国家は何れも我々に反抗する協約を結ぶことは、自己に不利であると考えざるを得ない。我々は実際余りにも強力であるので、何人も我々と妥協せねばならない。今日においては、列強は如何なる些細な協約でも、我々が秘かにそれに関係することなくしては、相互に締結することは出来ないのである。
『諸王は我に由って王たるべし』とは神の宣言である。また預言者等は我々が全世界の王たるべく神自らによって選ばれたるものなることを教えた。神は我々が自己の任務を完成し得るために、我々に天才を付与している。縦令へ敵の陣営に天才があり、我々に挑戦するとしても、神の選民に対しての戦は蟷蝍(とうしょく)の斧である。彼我の間の戦闘は世界始まって以来未だ嘗て見ざる惨劇を呈するであろう。しかも彼等の天才はこれに間に合わぬであろう。国家機関のすべての輪転機は我々の手中にある動力によって運転する。其動力とは即ち黄金である。我々の賢哲の樹立した政治経済学は王者の威力の資本にあることを明示している。
資本は全世界において絶対支配権を獲得するためには、商工業を独占する自由を確保しなければならぬ。此の計画を全世界において実現すべく我々の間接直接の魔手が既に此の事業に着手している。かかる自由は産業家に政治的勢力を与えるが、此の勢力は民衆の圧迫に役立っている。現在では諸国民を戦争に誘導するよりも、其武装解除する方が重要である。また是等諸国民の燃え上がった欲望は、之を消すよりも我々の為に利用しなくてはならぬ。他人の思想は、之を排撃するよりもそれを受け入れて利用した方が有効である。
我々の統治の主要任務は、社会的理性を批判を以って去勢し、反抗を可能ならしめるような思索を人間から奪い、そして一般の知力を誘っている空虚なる雄弁の交戦に堕せしめることである。
非ユダヤ諸国民及び各個人等は、あらゆる時代において言葉を行為と思って来た。それで彼等は単なる外見に満足して、公的世界において約束に実行が伴なわれたかどうかということには滅多に気がつかなかった。それ故に我々は外見的機関を設けて、我々が如何に一般的進歩の為に尽くしたかを雄弁的に証明しなくてはならない。
我々はすべての党派と主義との、自由主義的相貌をわがものとし、我々の代弁家に之を提供して淡々と弁ぜしめ、そして其の美辞麗句の弁説を以って非ユダヤ人共を疲らしめ、遂には此者共の心中にあらゆる雄弁家に対して嫌悪を抱かしめるようにしなければならぬ。
世論を掌裡に収むるには、それをして了解に苦しましめねばならぬ。即ち諸方面から互いに矛盾せる種々の意見を云い、非ユダヤ人をして迷宮に彷徨せしめ、政治問題に関しては何等の意見をも持たぬ方が優であると断念せしむる程甲論乙駁するのである。
政治問題は社会が知るの要なく、社会指導者のみ之を知るべきものである。これが第一の秘訣である。
政権掌握に必要なる第二の秘訣は、国民の欠点即ち風俗、習慣、欲望、社会生活の基準を煩縟ならしめ、何人も其選択に迷い、人々が互いに相解する事が出来ぬ如うな混沌状態に陥らしめるにある。此の方法により各政党間に紛憂を蒔き、我々に屈服せざる総ての団結勢力を解体し、些細なりとも我々の事業を阻害するが如きあらゆる個人の独創的発意を徹頭徹尾粉砕してしまうであろう。
最も危険なるは個人の独創的発意(イニシアチブ)であって、それが天才的人物にある時は、我々が紛憂を扶植した幾千万の民衆よりも一層の大事業を成し遂げる事が出来る。それであるから独創的発意を要する各事業に対しては、之を実行するに当たって絶望的無力を感じて為す所なからしめるように非ユダヤ人社会の教育を指導せねばならぬ。行動の自由より起こる所の努力が、他人の自由に遭遇する時は、其力が衰えるものである。之に因って精神的衝撃、失望、失敗が起こる。
此等の方法を以って我々は非ユダヤ人を困憊せしめ、以って世界中の国家の勢力をそっくり其の侭自己の任意により吸収して、超政府をつくり得る。国際主権を我々に提供することを余儀なくせしめ、目下の各為政者の代わりに、超政府行政庁と名乗る恐ろしいものを設ける。其の手は各国民を征服せねば止まざる底の膨大なる機関として釘抜きの如く八方に広がっている。

第六議定書

我々は近く一大富源たる大仕掛けの独占事業を企てる。此の独占事業は非ユダヤ人の尤大なる財産も、政治的大崩壊の翌日において、各国家の財産と共に消滅しなければならぬ程偉大なる拘束力を有するものとなるのである。
石油シンジケート・穀類シンジケート・魚類シンジケート・金属シンジケート・石炭シンジケート等々がある。
我々はすべての方策を画して我々の超政府の価値を高めねばならない。其為には超政府をば進んで我々に服従する者に対する保護者であり、報酬提供者であるかの如く装わねばならぬ。
非ユダヤ人貴族は既に政治的勢力としては全く没落して一顧にも値しない。しかし
なお土地の所有者としては其の独立的存在の余韻を維持する限り、我々の邪魔になるのである。故に我々はあらゆる方法によって彼等から土地を剥奪せねばならない。この目的に向かっての最良法は地租を高むること。即ち土地の負担を膨張せしめる事にある。この方法は土地所有権を絶対的低落に陥らしむるものである。遺伝的に質素に甘んずる事の出来ぬ非ユダヤ人貴族は急速に破滅の道程を辿ることになる。
これと同時に商工業、特に投機を努めて奨励助成せねばならぬ。投機の役割は工業に対立するにある。もし投機がなかったら、工業は小資本を増加し、不動産銀行の貸し出しに規定されている負担より土地を救い農業の勃興に資する事にある。工業によって土地より労力及び資本を巻き上げ、投機によりて世界の富を悉く皆我々の手に収め、以って非ユダヤ人全部をば下層階級に投げ込む事が必要である。斯くなる上においては非ユダヤ人は単に生存権を得たいばかりに我々に屈服するに至るであろう
非ユダヤ人の工業を破壊する為に、我々は投機を一層助成するもう一つ別の手段を講じなければならぬ。それは我々が以何より彼等の鼓吹して置いた贅沢、すべて放蕩尽してしまう奢侈への欲求を駆り立て、尚労銀(労働賃銀)を高騰させる。
労働賃銀の高騰は結局労働者に何等の利益をも与うるものでない。何となれば我々は他方において農業及び牧畜の衰微に因るとの理由で、生活必需品の価格を高騰させるからである。加之我々は労働者を無政府主義と飲酒癖とに訓致し、同時に地上から一切の非ユダヤ人の知識階級の勢力を駆逐するあらゆる方策を講じ、以って巧にまた根底的に産業の源泉を枯渇せしめるであろう。
非ユダヤ人が事の真相を時未だ到らざる前に見破ることのないように、我々は極力真相を隠蔽するに努めねばならぬ。それが為には我々の経済学者が盛んに唱導しつつある世界的な経済上の原則と労働階級とを全力を以って保護しようと努力しているように装わねばならぬのである。
1910年12月3日付けの「モスコースキヤ・ヴェドモスチ」紙第二九七号に『西欧における労働運動』なる一論文が掲載された。この論文の中から下に其の一節を引用しよう。
『・・・一般的に云えば、最近における一切の争議の重なる原因となっているのは労働賃銀の問題であって、労働者達は之が引き上げに狂奔しているのである。此の要求は、或る場合には、例えば労働賃銀の計算方法を更新せよと云う様な、他の理由を以って偽装する事もあるが、結局一切の争議は、労働者が受ける報酬の増額に起因するものである。フランスにおける鉄道のストライキの際には、鉄道従業員の最低賃銀を一日4フランから5フランに増額せよ!と云う要求が厳重に提出された。此要求がどの程度に実現されたかは別問題として、茲では其要求を提出するに至った原因に就いて述べて見よう。
西欧諸国においては此所数年間日用品の物価が著しく騰貴した。所謂『物価指数(インデックスナンバー)』がこれを物語っている。然し乍ら、この物価指数中には、消費品として同一の価値を有していない多種多様の物資が入っている。例えば、パン、鉄、絹織物、煙草等の如きものであるが、此等のうち或る物は生活必需品であると云えるし、また或る物は単なる奢侈品に過ぎないのである。加之、『物価指数』の示しているのは一定期間内における平均物価ではなくして、只だ単に或る時期における物価を表現するのみであるから結局偶然なる物価の変動を示すに過ぎないものである。故に、茲では、ドイツの官庁統計に従い、裸麦粉、小麦粉、豚肉、及び羊肉等最重要商品の一年間における平均価格を取り上げ且つ1899年から1904年迄及び1905年から1909年迄の両次5ヶ年間における平均物価を算出して見よう。然してベルリンにおける此商品の卸し売り物価は下記の如くである。
(単位:50キログラム当たりの価格:マルク)
1899−1904 1905−1909 騰貴率
裸麦粉    18.7 22.8 19%
小麦粉 22.5 26.9 19%
豚肉 104.8 124.3 19%
羊肉 121.0 144.5 19%

必要欠くべからざる上記食料品の物価が、両次5ヶ年間において一様に19%方の騰貴を示しているのは実に驚くべき一致であると云わねばならぬ。』

上記モスクワ新聞はかかる一致に喫驚している。
シオン賢哲会合議定書の第六議定書は、該新聞のかかる疑惑を解消せしめないであろうか。
裏切られ且つ現に欺かれつつある労働者よ覚醒せよ!
『シオン賢哲会合の議事録(プロトコール・シオンスキフ・ムドレーオフ)』の第六議定書の最後の下りが如実に物語っている。
“裏切られ且つ現に欺かれつつある労働者よ覚醒せよ!”
『シオン賢哲会合の議事録(プロトコール・シオンスキフ・ムドレーオフ)』の原稿が白日の下に晒された1905年に、アルバート・アインシュタインはスイスの首都ベルンで書き下した「特殊相対性理論」を発表し、スイスのバーゼルにいたウラジミール・レーニンはマルクス主義をレーニン主義まで拡大させ、社会主義を共産主義の中に忍ばせる謀略を虎視眈眈と狙っていた。
そのスローガンが、“裏切られ且つ現に欺かれつつある労働者よ覚醒せよ!”だったのである。
労働者(プロレタリアート)が主役である社会主義が何ゆえ共同社会(ゲマインシャフト)を志向する共産主義と同じなのか。
「資本論」を書いたマルクスでさえ、後日、社会主義と共産主義は根本的に違っていて、寧ろ、資本主義に近いものであると本音を吐いているではないか。
世界の学識者が悉く社会主義=共産主義に嵌り込んだことを、『シオン賢哲会合の議事録(プロトコール・シオンスキフ・ムドレーオフ)』の第二議定書の中で書かれた罠が見事に証明しているではないだろうか。

肝要なのは、科学の命令(理論)だとして、我々が彼等に吹き込んでおいたものが彼等の為に最も重大なる役割を演じていればよいのである。この目的の為に我々は、始終我々の新聞雑誌を利用して、この命令に対する盲目的信用を鼓吹する。
非ユダヤ人中の知識階級は自己の知識を誇りとして、『科学から』得た知識を巧妙に実現しようとするのであろうが、然もそれの知識を論理的に吟味もせず、またその知識なるものが、人間を我々に必要な方向に教育するため、我々の密使によって作り上げられたものであることには気がつかないのである。


世紀毎の16年の空白期間は時間を超えた空間で繋がっているのであるが、愚鈍な一般大衆はそのことにまるで気づいていない。
しかし、二十一世紀はそうは行かない。
鬼神四郎から鬼神冬子に引き継がれた国津神の精神が、この日の出る処に息吹いている限りは、そうは問屋が卸さないのだ。
あのアインシュタインが来日して言った次のメッセージが示唆しているではないか。

“世界の未来は進むだけ進み、
其の間、幾度か争いは繰り返されて、最後の戦いに疲れる時がくる。
其の時人類はまことの平和を求めて、世界的な盟主を崇めなければならない。
この世界の盟主たるものは武力や金力ではなく、
あらゆる国の歴史を抜き超えた最も古く、また、最も尊い家柄でなくてはならぬ。
世界の文化はアジアに始まってアジアに帰る。
それはアジアの高峰、日本に立ち戻らねばならない。
われわれは神に感謝する。われわれに日本という尊い国を作って置いてくれたことを・・・”

アジアとは、“Açu(日の出る国)”のことだ。
ヨーロッパとは、“Ereb(日の没する国)”のことだ。
アジアとは、“Oriens(日が昇る=rise)”のことだ。
ヨーロッパとは、“Occidens(日が没する)=fall)”のことだ。
“Açu(日の出る国)”の高峰が日本、つまり、日の本ということだ。
地球は球体だから必ず中心がある。
厳密に言えば、楕円体だから中心は二つある。
“Açu(日の出る国)”の高峰と“Ereb(日の没する国)”の高峰が、二つの中心である。
世界の文化はアジアに始まってアジアに帰る。
それはアジアの高峰、日本に立ち戻らねばならない。