第四十一章 新しい人間

2034年は象徴的な年である。
2034年1月1日から2049年12月31日までの間の時間が消滅した始まりの年なのである。
八郎とリエが四国の池田町にある三木家の前から、唯一眺めることのできる剣山頂を見た瞬間、16年の歳月が消滅してしまった。
16年の歳月が一瞬に経った。
空間が消滅することで時間も消滅したからだ。
幻の時間は2033年12月31日11時55分1秒、2秒・・・56分1秒、2秒、3秒・・・57分1秒、2秒、3秒・・・58分1秒、2秒、3秒・・・58分1秒、2秒、3秒・・・59分1秒、2秒、3秒・・・59分1秒、2秒、3秒、57秒、58秒、59秒・・・と流れていく。
幻の時間は2033年12月31日11時55分1秒、2秒・・・56分1秒、2秒、3秒・・・57分1秒、2秒、3秒・・・58分1秒、2秒、3秒・・・58分1秒、2秒、3秒・・・59分1秒、2秒、3秒・・・59分1秒、2秒、3秒、57秒、58秒、59秒、沈黙・沈黙・沈黙、2034年1月1日0時0分1秒、2秒、3秒・・・と流れていく。
実在の空間は2033年12月31日と2049年12月31日を共有する。
秒刻みの時間が何の意味がある。
分刻みの時間が何の意味がある。
世界の終焉の瞬間とはこんな感じなのだろうか。
残された者がいれば、後々検証もできるだろうが、微塵の跡形もなければ、目撃者も証言者もない。
歴史の真実は沈黙の目撃者でしか語り得ない。
歴史の真実は沈黙の証言者でしか証言し得ない。
すべてを一瞬にして奪い去っていく力の源泉は何処からやって来るのだろうか。
4=16年の歳月が一瞬に経った。
空間が消滅することで時間も消滅したからだ。
16年の歳月が24の指数、つまり、4秒で事が済んだのである、
逆に言えば、我々が普段4秒という時間で経験していることは、実在の世界では16年に当たるということだ。
2時間の映画で人間の一生を語ることも可能だし、宇宙の一生も語ることができる。
映像の世界とはそんなものだ。
映像の宇宙とはそんなものだ。
宇宙が誕生して150億年経ったというが、150億は233=85億8993万4592と234=171億7986万9184の間であるから、実在の宇宙では、高々33秒から34秒の出来事に過ぎない。
一つの部屋に24=16年の隔たりを持った男女がいる。
男の中に男と女がいる。
女の中に女と男がいる。
だから24だ。
田島八郎の中に男と女がいる。
石嶺リエの中に女と男がいる。
「アメリカが新型爆弾を東京に打ち込んだらしい・・・」
石嶺リエの中の男が田島八郎の中の女に話かけた。
2050年1月1日の二人の会話だ。
「ひめゆりの塔での事件が、世界戦争にまで発展してしまうなんて・・・」
石嶺リエの中の男は未来に想いを馳せているから、2050年1月1日の話に符号する。
田島八郎の中の女は過去に想いを馳せているから、2034年1月1日の話に符号する。
「ありがとう。わたしたちのためにやって来てくれて・・・」
「いらっしゃい、琉球へ。わたしたちの願いを叶えて・・・」
「アメリカ軍が沖縄から完全撤退することが、全沖縄県民の切なる想いです。どうか、わたしたちに力を貸してください」
八郎がはじめて那覇空港に降り立った時、リエが迎え入れた。
石嶺リエの中の女が囁きかけると、田島八郎の中の男が耳を傾ける。
2034年1月1日の話に符号する。
二人は同じ空間の時間の違う時間に一緒にいる。
それでいて会話が可能なのは、水平的時間の流れの中にいないからである。
人間は悉く同じ設定の世界で生きているのに、まったく気づいていない。
自分以外の人間も同じ時空間の世界に生きていると思い込んでいるらしいが、そんなことがあり得る筈がない。
見ている相手自身が過去の映像であり、相手が見ている自分自身がこれまた過去の映像であるのに、どうして同じ時空間の世界に居ることがあり得るだろう。
見ている者(seer)は『今、ここ』にいて、見られている者(seen)は過去の映像なのである。
1光年の先の星とは、一年前に発した光を我々は見ているのだ。
太陽の姿とは、8分前に発した光を我々は見ているのだ。
月の姿とは、2秒前に発した光を我々は見ているのだ。
目の前にいる石嶺リエの姿を見ている田島八郎は、過去の石嶺リエを見ているのであり、田島八郎が存在する『今、ここ』には石嶺リエの存在はない。
まさに24の人間が絡み合うドラマだ。
リアリティーでは決してない、ただのドラマである。
八郎とリエは宇宙への旅をした。
その間に16年という歳月が経過していたわけだ。
2033年12月31日の次の日は2034年1月1日の筈だが、八郎だけが16年ジャンプした。
首里の都ホテルの一室は、2033年12月31日の空間にリエが居て、2049年12月31日の空間に八郎がいたのである。
ところが12月31日から1月1日になる24=4秒の間に、リエも16年ジャンプした。
結果、ふたりは2050年1月1日における首里の都ホテルの一室を共有したのである。
ふたりの乗った漁船は宇宙船だ。
漁船の中は地球上での時間が経過するが、漁船の外の空間は地球の時間が適用されない。
1999年1月31日に生まれた八郎は31歳だが、月では31÷0.003=10,334歳であり、月で31歳の八郎は、地球では(31×1)÷365=0.08歳にしかならない。
2015年1月31日に生まれたリエは19歳だが、月では19÷0.003=6,334歳であり、月で19歳のリエは、地球では(19×1)÷365=0.03歳にしかならない。
ふたりの年齢の間には正確に16年の差がある。
世界に80億近くいる人間の中で、ふたりが出会う確率は0.003%から0.008%しかないことを示唆しているにも拘わらず、ふたりは同じ宇宙船に乗るという奇跡的な同通者なのである。
地球に住んでいる者が月に移住する場合と、月に住んでいる者が地球に移住する場合で歳の取り方がドラマチックに変化する。
こんな新しい時代には新しい人間が出現する。
それが233=8、589、934、592=85億(おく)8993万(まん)4592の人口を超えた時期だ。
それが、2034年である。
星の誕生と死にはいくつかの形態がある。
太陽のような恒星の誕生と死はホワイトホールとブラックホールだが、地球のような惑星の誕生と死はホワイトホールでもブラックホールでもない。
恒星がホワイトホールから抜け出して誕生した際に、猛烈な速度でコマの様に回転しはじめた。
回転すると遠心力と求心力が生まれた。
求心力は恒星自体の死に向かう力であるのに対して、遠心力は恒星の子孫保存本能の力になって、無数の子星を宇宙に放散する。
恒星の子供・惑星がこうして誕生する。
太陽の子供・惑星は水星・金星・地球・火星・木星・土星・海王星・天王星であるが、それ以外に数千の迷星がある。
彗星とは迷星のことである。
彗星の世界は遠心力の一番外側の力の世界だが、惑星や惑星の子・衛星の世界は求心力の及ぶ世界にいるから、親星の太陽がブラックホールになって死んで行く際に、惑星も吸い込まれて死んでいく。
すなわち、恒星の死は絶対死であるのに対し、惑星や衛星の死は相対(あいたい)死、つまり、心中である。
絶対誕生がホワイトホール。
絶対死がブラックホール。
宇宙の誕生と死は絶対的であり、その中で相対(あいたい)死がある。
地球といった惑星や、月といった衛星の死は相対(あいたい)死なのである。
生命体(有機生命体)が存在する可能性があるのは恒星ではなく、惑星若しくは衛星である根拠がここにある。
木星の衛星エウロパ。
土星の衛星タイタン。
こういった惑星の子・衛星に生命体が存在する可能性がある根拠は、その死の形態にあるわけだ。
逆に言えば、我々人間といった生命体の死が相対(あいたい)死である根拠は、地球という惑星の死が相対(あいたい)死だからである。
絶対死の恒星に対して、惑星・衛星、そして、我々人間で代表される有機生命体の死の形態は相対(あいたい)死なのである。
つまり、無理心中である。
つまり、無理自殺である。
よくよく考えてみれば、突然襲ってくる死とは、無理心中、無理自殺に外ならない。
太陽といった恒星の死は予定死であるのに対して、地球、月、人間といったものの死は無理心中、無理自殺である。
いつか必ず死ぬことを知った人間でありながら、死は突然襲ってくる理由は、相対(あいたい)死、つまり、無理心中にある。
地球上に存在する生命体とは、地球の一表現をしている。
地球の一構成員であるから当然の理だ。
地球の死が相対(あいたい)死であるから、地球上の生命体も相対(あいたい)死するのは当然の理である。
相対(あいたい)死とは無理心中、無理自殺に他ならないから、その死期は予期できず、突然襲ってくる。
親子心中に巻き込まれる子供と同じ立場が、地球といった惑星であり、地球の一構成員である人間も同じ立場だ。
太陽といった恒星の死は絶対死である。
絶対死と相対(あいたい)死。
絶対性理論と相対性理論の原点にあるのは死の問題である。
誕生・生・死の円回帰運動も突き詰めてみれば、誕生・死の問題に帰結するわけだ。
絶対性の宇宙では、誕生=死しかない。
相対性の宇宙では、誕生・生・死の円回帰運動になる。
絶対性の宇宙とは、静止一如の宇宙であり、それが誕生(ホワイトホール)であり、死(ブラックホール)である。
相対性の宇宙とは、静止・運動二元の宇宙であり、それが相対(あいたい)誕生であり、相対(あいたい)生であり、相対(あいたい)死である。
有機的な表現をすると、誕生・生・死となるが、無機的な表現をすると、静止・運動・静止となる。
有機生命体の先頭を切っている人類は、誕生・生・死という静止・運動宇宙における斥候役と言えるだろう。
つまり、地球の斥候役なのである。
人類だけに「死の概念」を与えた理由がここにある。
人類の後を追従していく他の生命体が、「死の概念」を持つ必要がないのは、人類が地球の斥候役であるからだ。
猿がその後をすぐ追いかけている。
猿が人類に似た行動様式を取る理由である。
いずれ、猿も人類と同じ生き方をするだろう。
遅かれ早かれ、猿も人類と同じように、「死の概念」を持つ時期がやってくるだろう。
その時はじめて、人類は「死の概念」から「死の理解」に進化する。
その時はじめて、人類は相対(あいたい)死の本質を理解することになるだろう。
その時期が目前に迫っている。
それが233=8,589,934,592=85億(おく)8993万(まん)4592の人口を超えた時期だ。
それが、2034年である。
「新しい地球」が登場し、「新しい人間」が登場し、「新しい猿」が登場する。
相対性の世界、つまり、静止・運動の宇宙における、節目の時期がやって来るのだ。
すべて「新しい・・・」ものがやって来る時期である。
人類は猿から進化した。
その橋渡しをしたのが「新しい猿」だ。
ただの猿と「新しい猿」との違いは知性を持つか持たないかの差だった。
知性を武器にしたのが「新しい猿」だ。
他の動物と同じように、爪や牙を武器にしていたのがただの猿だ。
弱肉強食の自然社会は食う食われる社会だ。
彼らは食うか食われるかの意識しかない。
食うことは生きることだ。
食われることは死ぬことだ。
食われることが「死の観念」だ。
食われることを怖がるのが「死の観念」だ。
そのために戦う。
そのために武器を使う。
「死の概念」を持つ人間と、「死の観念」を持つ他の動物との決定的な違いがここにある。
「死の観念」は『今、ここ』の死についてだ。
「死の概念」」は『未来』の死についてだ。
植物や鉱物には「死の観念」すらない。
だから、植物や鉱物は食われることを怖がらない。
「死の概念」を持つ人間は、殺す殺されるだ。
殺す殺される社会が人間社会だ。
人類が更に一歩進化するには、「死の概念」から「死の理解」に進化することが必要だ。
「死の理解」をした人間が「新しい人間」である。
人類は「旧い猿」から「新しい猿」に進化して「人間」になった。
爾来、「人間」は1万数千年の時を経て「新しい人間」が誕生した。
「旧い猿」から「新しい猿」に進化したように、「旧い人間」から「新しい人間」に進化した。
人類の夜明けにおいて、「新しい猿」が「超猿」だったように、「新しい人間」とは「超人間」のことである。
「旧い猿」は古来の常識を踏襲していたのに対して、「新しい猿」は古来の常識を超えていく。
爪と牙を武器として戦ってきた「古い猿」に対して、新しい武器を発見した「新しい猿」は古来の常識を超えたところで行動する。
好きなことと嫌いなことを別のものと捉えるのが古来の常識だ。
好きなことと嫌いなことを同じものと捉えるのが常識を超えることだ。
前例の無いことを一切しない。
常識派だ。
前例の無いことが当然である。
非常識派だ。
「新」=「超」=「非」だ。
常識派は、「非」=「不」と錯覚する。
非常識派は、「非」=「超」と理解する。
不思慮底思慮是即非思慮。
不思慮を思慮する、是れ即ち非思慮。
思慮しないことを思慮し続けるといつか不思慮から非思慮になる。
はじめに「不」があり、「不」が「非」になった時、超えたと言う。
良が不良になり非良になったとき、良を超えることができる。
生きものの種は層別に進化する。
基本層は四つだ。
猿類という種においても、四つの基本層がある。
猿類は、正式にはサル目という脊椎動物亜門哺乳網の一目で、霊長目とも呼ばれ、いわゆる霊長類である。
キツネ猿類、オナガ猿類、類人猿、そして、ヒトである
サル目からヒトを除いた総称をサルと呼ぶ。
類人猿(Ape)はサル(Monkey)ではなく、寧ろ、ヒトの仲間であり、類人猿(Ape)を「類人」と呼ぶ。
人類の祖先である「新しい猿」は、まさしく類人猿(Ape)に他ならず、アウストラロピテクス(猿人)他ならない。
500万年前の出来事だ。
人類の祖先であるヒトは、原人から始まる。
50万年前の出来事だ。
人類(Mankind)という種においても、四つの基本層がある。
原人、旧人、新人、そして、ホモサピエンスだ。
19=524288、つまり、ヒトの数がおよそ50万人になった頃に原人が誕生。
20=1048576、つまり、ヒトの数がおよそ100万人になった頃に旧人が誕生。
21=2097152、つまり、ヒトの数がおよそ200万人になった頃に新人が誕生。
22=4194304、つまり、ヒトの数がおよそ400万人になった頃にホモサピエンスが誕生。
ホモサピエンスは、まさしく人類(Mankind)に他ならない。
1万数千年前の出来事であり、文明社会の誕生がこの後に続く。
22=4194304、つまり、人間の数がおよそ400万人になった頃に人類文明が誕生。
23=8388608、つまり、人間の数がおよそ800万人になった頃に、共同(人間)社会が誕生。
24=16777216、つまり、人間の数がおよそ1千600万人になった頃に、利益(人間)社会が誕生。
25=33554432、つまり、人間の数がおよそ3千300万人になった頃に、利益社会=農耕型社会が隆盛。
いわゆる人間(Human beings)の誕生である。
人間(Human beings)という種においても、四つの基本層がある。
古代人、中世人、近代人、そして、新代人だ。
現代人は近代人の一種に過ぎない。
26=67108864〜227=134217728、つまり、人間の数がおよそ6千700万人から1億3000万人になった頃に、古代人が誕生。
28=268435456〜229=536870912、つまり、人間の数がおよそ2億6000万人から5億4000万人になった頃に、中世人が誕生。
30=1073741824〜231=2147483648、つまり、人間の数がおよそ10億1000万人から21億5000万人になった頃に、近代人が誕生。
32=4294967296、つまり、人間の数がおよそ42億9000万人になった頃に、現代人が誕生。
1970年代の出来事だ。
そして、
33=8589934592、つまり、人間の数がおよそ85億9000万人になった頃に、新代人が誕生する。
原人、旧人、新人、そして、ホモサピエンスだ。
ホモサピエンスは、まさしく人類(Mankind)に他ならない。
人類がホモサピエンスになるために、原人、旧人、新人と進化していった。
古代人、中世人、近代人、そして、新代人だ。
いわゆる人間(Human beings)の誕生である。
新代人は、まさしく人間(Human beings)に他ならない。
人間(Human beings)が新代人になるために、古代人、中世人、近代人と進化していった。
現代人は近代人の一種に過ぎない。
人類(Mankind)の最終仕上げが、ホモサピエンスによって為されたように、人間(Human beings)の最終仕上げが、新代人によって為されるというわけである。
宇宙の進化も、銀河の進化も、太陽のような恒星の進化も、地球のような惑星の進化も、そして、宇宙進化の最終仕上げが衛星によって為されるのも、人類(Mankind)や人間(Human beings)の進化の最終仕上げとメカニズムはまったく同じである。
宇宙が誕生したビッグバンがこの世の始まりなら、衛星に辿り着くのがこの世の終わりだ。
宇宙の円回帰運動は「七の法則」に則している。
「七の法則」とは「オクターブの法則」だ。
ビッグバンから宇宙の誕生が、「ド」から「シ」の半音だ。
宇宙の誕生から銀河の誕生が、「シ」から「ラ」の全音だ。
銀河の誕生から恒星の誕生が、「ラ」から「ソ」の全音だ。
恒星の誕生から惑星群の誕生が、「ソ」から「ファ」の全音だ。
惑星群の誕生から惑星の誕生が、「ファ」から「ミ」の半音だ。
惑星の誕生から衛星の誕生が、「ミ」から「レ」の全音だ。
そして、
衛星の誕生から衛星の死が、「レ」から「ド」への回帰だ。
つまり、
衛星の死こそが、次のビッグバンへの円回帰なのである。
恒星の誕生がホワイトホールであるように、恒星の死がブラックホールになる。
半音の連弾が、「無」から「有」若しくは「有」から「無」へのジャンプということになる。
地球のような惑星が他の宇宙に在るはずがない所以がここにある。
月のような衛星が子供の星を持たない所以がここにある。
人間の一生も「オクターブの法則」に則して円回帰運動をする。
七年周期説がその一環だ。
厄年は七年周期の一環だ。
0才から7才が、「ド」から「シ」の半音だ。
7才から14才が、「シ」から「ラ」の全音だ。
14才から21才が、「ラ」から「ソ」の全音だ。
21才から28才が、「ソ」から「ファ」の全音だ。
28才から35才が、「ファ」から「ミ」の半音だ。
35才から42才が、「ミ」から「レ」の全音だ。
42才から49才が、「レ」から「ド」への回帰だ。
このことは多くのことを人間に示唆している。
(1)0才から7才の半音時期と、28才から35才の半音時期が人生において、極めて重要な時期であること。
(2)人間という生きものの寿命は本来49才であること。
(3)42才から49才の時期に回帰準備、つまり、「死」の準備に取り掛からなければならないこと。
を示唆している。
人類の数が20世紀に入って急速に増えだした。
その兆しは500年前まで遡る。
近代社会がヨーロッパで誕生した時まで遡る。
人類の歴史で言うところの古代・中世では、人類の数はほぼ横這いの状態で推移していた。
古代とは奴隷社会だ。
中世とは封建社会だ。
宗教勢力が巾を利かしていた時代だが、地球全体、つまり、自然社会とは友好関係にあったわけだ。
だから、人類の数は千年単位で横這いの状態を維持できたのである。
人間社会だけに差別・不条理・戦争が横行していただけで、地球、つまり、自然社会との軋轢はなかった。
ところが、近代社会に入って事態は急変し、特に、20世紀に至っては、100年間の間に、16億人だった数が63億人まで爆増した。
古代・中世の1500年間に、3億人だった数が4億3000、つまり、1億3000万人しか増えなかったのに、20世紀の100年間で、47億人も増えたのである。
その原因ははっきりしている。
科学の為せる業だ。
特に、医療科学の発展で、先進諸国では、人類という種の平均寿命が80才にまで延びたことが大きい原因だ。
「オクターブの法則」がその原因をはっきりと示唆している。
(1)0才から7才の半音時期と、28才から35才の半音時期が人生におい   て、極めて重要な時期であること。
(2)人間という生きものの寿命は本来49才であること。
(3)42才から49才の時期に回帰準備、つまり、「死」の準備に取り掛からなければならないこと。
50才以上の人間は余計なのだ。
ところが、現代の人間社会では、50才以上の人間が、あらゆる面で力を持っている。
地球、つまり、自然社会と軋轢が激化するのは当たり前だ。
月の「想い」である「テンシ」が地球にやって来て、人類を総括するという対象は、50才以上の人間なのである。
20世紀の100年間で、16億人から63億人、つまり、47億人の人間が急激に発生した直接の原因は、二つの世界大戦である。
1914年から1918年までの第一次世界大戦では5千万人が死んだが、その後、第二次世界大戦が勃発する1939年までの21年の間に、人間の数は逆に20倍の10億人が増え、1939年から1945年までの第二次世界大戦では1億5千万人が死んだが、その後の冷戦が終結する1989年までの44年の間に、人間の数は逆に20倍の30億人が増えた。
戦後のベビーブーマーという現象であるが、自然現象の一環に過ぎない。
ある種が突然その数が減少すると、自然の食物連鎖の法則の反作用が働くわけだ。
逆もまた真なりである。
ある種が突然その数が増加すると、自然の食物連鎖の法則の反作用が働く。
自然社会における食物連鎖の法則が崩れようとしている際に必ず起こる現象である。
シマウマを食うライオンが余計にシマウマを食うと、食われるシマウマは絶滅の危機を感じて、どんどんシマウマの子供を産むのと全く同じ現象なのである。
自然社会では、ある種だけの突然増加、突然減少という現象は滅多にないが、自然気象の異常発生の際に起こることがある。
バッタ、イナゴ、アリの異常発生が起こったことがあるが、その原因は自然の異常気象の所為だった。
一方、人間という種の異常発生は、趣が異なる。
異常気象の所為ではなく、異常欲望の所為である。
異常気象は自然現象、更に、厳密に言えば、大宇宙の法則の誤差現象だが、人間という種の異常発生の原因である異常欲望は、人為的な問題である。
そして、その背景には、対象種の中で格差現象が起こっていることも見逃してはならない。
戦後のベビーブーマー現象は、まさに、このことを示唆している。
第二次世界大戦の後のベビーブーマーたちが、50才の年齢に至ったのが、1997年から2007年である。
この期間に、月の「想い」である「テンシ」が地球にやって来て、人類を総括するというわけだ。
人間の数が異常発生する原因は、異常気象ではなく、人為的な異常欲望にある。
異常気象の原因は、地球の自転と公転の誤差現象にある。
地球の一公転=地球の365.25自転だ。
この100分の25の公差が誤差現象の原因である。
4年に一回の閏年がある。
つまり、地球の異常気象は4年に一回起きる。
宇宙の法則で言えば、熱力学の法則のことだ。
熱力学第一の法則は、「エネルギー保存の法則」である。
「不増不減」の話だ。
熱力学第二の法則は、「エントロピーの法則」である。
これが誤差現象の原因になる。
4年に一回の誤差現象なら、異常気象もそれほど大きくはないが、2=8年に一回、2=16年に一回、2=32年に一回、2=64年に一回、2=128年に一回、2=256年に一回、2=512年に一回、そして、210 =1024年に一回起きる異常気象は、人間社会のみならず、自然社会にまで大きな影響を齎す。
聖書で“Millennium(千年周期思想)”がある所以はここにある。
バッタ、イナゴ、アリの異常発生は、そんな中で起こる。
ところが、人間だけにある人為的な異常欲望は、4年に一回の頻度で発生する。
近代社会に入って、人間の異常欲望が頻発したわけだ。
その張本人が「科学」であることには間違いない。
異常欲望の波長がますます短くなっていくわけだ。
いわば、世の中が高速度化していく現象である。
拝金主義思想はそういった状況の中で出現する。
拝金主義思想がますます高速度化していくと、超拝金主義思想へと、どんでん返ししていく。
拝金主義思想が宇宙の膨張過程であるなら、超拝金主義思想は宇宙の収縮過程に当てはまる。
超拝金主義思想が蔓延した社会は、必ず格差社会を誘導する。
超拝金主義思想が蔓延した社会は、必ず超世襲・相続の差別社会を誘導する。
超拝金主義思想が蔓延した社会は、必ず超支配・被支配二層高増社会を誘導する。
そして、最終的には、超オス社会を誘導する。
その時、「オス社会」の終焉がやって来る。
「メス社会」の復活だ。
「新しい人間」とは「メス社会人間」のことである。