第三十四章 鬼その人

2050年5月1日。
巨大な杉の木が天神社の境内に突然出現した。
天神社へ通じる道端にひっそりと祀られている地蔵の前で、八郎の頭上に落雷のような強烈な衝撃が走った。
同じ瞬間(とき)、天神社の長い階段を上りきった後に広がる地に、突如、巨大な木が天空に突き刺さるように現われた。
竹林が延々と続く千里という場所は、箕面連山の麓に広がる特殊な磁場を持つ。
生駒山連山に繋がり、六甲連山にも繋がる、日本の歴史の臍の部に当たる地である。
それだけに、強烈な磁場を持っている。
春に竹林が千里の長きに延びる様は、まさにヨーロッパの各地でキリスト教の大聖堂・ドゥオモ(Duomo)がゴシック建築の粋を極めて天空に伸びる様を髣髴させる。
強烈な磁場を有する所だけに現われる現象だ。
朦朧とした意識の状態で八郎は、天神社へ再び足を進めた。
突然現われた巨大な杉が八郎を呼んでいるのだ。
杉は不思議な木だ。
大木の代表であるのに、人間から歓迎されない。
人間社会が捏造した神の世界では、杉は悪魔の権化としか扱われない。
天皇家の皇祖神である天照坐皇大御神(アマテラシマススメオオミカミ)を祀り、古代より皇女が斎王として派遣されるなど、皇室の厚い崇敬を受けている日本神道の一宮である伊勢神宮には無数の杉の大木がある。
日本列島の臍の位置にあって強烈な磁場を有するからだ。
東経135度の明石が日本の中心だとされているが、それは飽くまでも地性学的、つまり、形而下学的観点からだけだ。
形而上学的観点では、伊勢神宮の位置するところが日本の臍になる。
そして、二十一世紀という新しい世界の時代に突入して半世紀経った今、新しい磁場が誕生したのである。
それはまるで地軸の移動を示唆しているようであった。
八郎の目の前に、その姿を現わした杉の大木はまるでガリバーのようであった。
見上げる八郎。
見下げる杉の大木。
見上げるのは、厳密に言えば観上げるのである。
見下げるのは、その字の通り見下げるのである。
下から上を観る。
上から下を見る。
形而上学が目に観えない世界感であるのに対し、形而下学が目に観える世界観である所以がここにある。
形而上学が全体感であるのに対し、形而下学が部分観である所以がここにある。
下から観る世界は、畢竟、狭窄現象を起こす。
上から見る世界は、畢竟、広延現象を起こす。
平たく言えば、狭小な心か、広大な心の違いを針小棒大に表現しているだけのことだ。
やはり、大は小を兼ねるが、小は大を兼ねることは出来ないのである。
ところが、人間社会では小が大を駆逐することが多々ある。
それをハングリー精神と称して絶賛するが、所詮、狭小な人間社会だけの常識だ。
結果、錯覚づくめの妄想社会を捏造してしまった。
八郎が観上げた杉はまるでガリバーのようであった。
視点を変えるのは、観点を変えることに他ならない。
知性の限界がここにある。
人間には感性などまったくない。
感性と錯覚しているだけで、その正体は狭小な知性に過ぎない。
知性に自信がない連中が、感性だと騒ぎ立てるのだ。
まさに狭小な知性に過ぎない。
エデンの園の知性という禁断の実を食べた人間にとって、進むべき道は知性の広延しかないのだ。
知性の狭窄は決して野生の世界に誘ってくれない。
深淵という谷底に落下するしかない。
それを真の地獄と言うのだ。
感性など、五感の極めて鈍い人間にあるわけがない。
同じ人間でも野生に近いアフリカの原始生活をしている人々の視力は20以上あるといい、畢竟、我々現代人の視力の10倍ある。
数キロ先のモノまで色別できるという。
近視の現代人なら1メートル先のモノでも色別できない。
犬の嗅覚は人間の100万倍あるという。
数百キロ先のモノまで臭別できるという。
現代人なら数十メートル先のモノでも臭別できない。
全盲の人の聴覚は一般人の数百倍あるという。
数キロ先のモノまで音別できるという。
現代人なら数十メートル先のモノでも音別できない。
感性とは五感能力に他ならない。
人間は知性の発達と相殺して感性を退化させてきたのである。
ならば、知性を更に発達させるしか道はないのだが、知性の発達が感性を殺すという悪循環に陥ってしまった。
エデンの園を追放された我々人類は、エデンの東にある「ノド」の町に行くしかないのだ。
エデンの園に戻るなど神が許すわけがない。
1万数千年の歴史を持つ人類は、知性と感性の戦いの歴史であったと言い換えても過言ではない。
感性の生き物から知性の生き物への脱皮が人類という霊長類の最先端を走る生き物の使命である。
地球上に生命体が誕生してから、およそ38億年が経過する。
生命体38億年の歴史は、食うか食われるかの歴史でもある。
それは生命体自身にとっての問題であり、母なる大地である地球にとっては自然の食物連鎖の法則の維持に過ぎない。
自然の食物連鎖の法則の維持のために、母なる大地である地球は38億年掛けて、単細胞から多細胞、そして魚類・両生類・爬虫類・哺乳類と進化させてきたのであり、その最先端にいるのが我々人類だ。
我々人類は、未知の世界を手探りしながら前進するしかない。
聖書にある“盲人が手探りする”とは、この意味だ。
真暗闇の中を生きる盲人が手探りするとはどういう意味だ。
エデンの園を追放された人類は盲人だ。
エデンの東にあるという「ノド」という町へ向かって手探りの人生を歩まなければならない人類にとって、感性は邪魔者以外の何者でもない。
神から追放を受けた人類が、神の恩恵を受けることなどあり得ない。
ただ知性によって手探りするしかない。
ただ知性の扱い方を間違っていたのだ。
神は鬼であって、鬼は神であったのだ。

自然の食物連鎖の法則で、動物は植物より上位にあり、植物は鉱物より上位にある。
そうならば、鉱物は動物より上位になければならない筈だ。
連鎖とは円回帰することであり、始点が終点でもあるからだ。
更に、円回帰は途中で折り返し点が必ずある。
前半と後半では方向が逆転する。
始点は終点である。
前半と後半でどんでん返しがある。
風船を膨らまし続けることは不可能だ。
どこかで必ず破裂して縮んでしまう。
膨張が前半で、収縮が後半だ。
137億年の歴史を誇る、我々の宇宙は依然膨張を続けていると言われている。
つまり、前半の過程にある。
それならばいずれ必ずどんでん返しが起こる筈だ。
“死は必ずいつかやって来る”という支離滅裂な考えとまるで同じだ。
“いずれ必ずどんでん返しが起こる”のではなく、“必ずどんでん返しが起こる”のだ。
ではその時とは?
『今、ここ』しかない。
ガリバーのような杉の大木が突如現われたのは、その兆しであったのだが、八郎がそのことに気づいていなかったのは言うまでもない。
杉の大木の前に立った八郎は、最早、異次元の世界にいた。
地球の磁場ではなく、月の磁場にいたのだ。
鳥のさえずりや、動物の鳴き声は、人間の言葉とはまるで違う。
“奇麗な薔薇だなあ!”
こんな言葉など薔薇自身にはまるで伝わっていない。
“キレイだな!”
この言葉なら薔薇は人間に反応する。
言葉は固有名詞を意味する。
固有名詞から代名詞が生まれ、代名詞から関係代名詞が生まれ、関係代名詞から動詞が生まれて、文章になり、文章が考えになっていった。
「考え」、つまり、「想い」や「こころ」とは文章に他ならず、その元には、固有名詞が潜んでいることを、我々人類は忘却してしまった。
更に固有名詞を遡ると、形容詞や副詞に辿り着く。
それが、鳥のさえずりや、動物の鳴き声に他ならない。
彼らには、“キレイだな!”しかない。
我々人間だけが、“奇麗な薔薇だなあ!”と考える。
肝腎の薔薇は、そんな人間にまったく反応しない。
本当の感性とはそういうものだ。
早朝と言っても、人の喧騒は絶えない。
八郎を訝し気に見過ぎる他人がいる。
八郎が異次元にいるかどうかのバロメーターは、訝し気に見過ぎる他人の存在を意識しているかどうかにある。
訝し気に見過ぎる他人の存在を意識しているなら、八郎と他人は同次元の世界にいる。
畢竟、映像を現実だと錯覚する幻想の世界だ。
“奇麗な薔薇だなあ!”の世界だ。
訝し気に見過ぎる他人の存在を意識していないなら、八郎と他人は異次元の世界にいる、
畢竟、自分独りだけの実在の世界だ。
“キレイだな!”の世界だ。
人間社会から忌み嫌われてきた杉の大木が遂に反応した。
季節は既に晩秋に差しかかっていたが、青々とした葉塊がまるで力士の土俵入りのように揺さ揺さと左右に揺れる。
力士とただの肥満での外見上の差異はさほどないが、背骨を通る筋金においてはまるで月と鼈ほどの差がある。
月と鼈。
いや!その前に力士の土俵入りについての説明を要求される筈だ。
彼らの外見はまさに脂肪の塊だが、中身はまさに鋼鉄の塊だ。
昔日の関取候補は痩せぎすの運動神経の権化のような少年しか入門の扉を開けることができなかった。
今日の関取候補は長身の立派な体躯の少年しか入門の扉を開けてもらえず、唯一最大の要素である運動神経は無視されている。
痩せぎすの体躯に一枚一枚の鋼板を重ねていくのが、稽古という名の四股と鉄砲だ。
朝早くから寝床に入る前まで四股と鉄砲三昧の新弟子時代を送った者だけが、目も眩むばかりの絹白の綱を張ることができる。
バーベル相手のいわゆるウェートトレーニングは、外見上の美を競うだけで、筋金の代わりに快楽の電気が走る稲妻の電線と化する。
大相撲はボディービルコンテストではない。
八郎の前に突如現われた杉は樹齢800年の鋼の筋金を葉塊で覆い隠し迫ってきた。
“ざああ!ざああ!ざああ!”
人間の言葉ではない。
つまり、形容詞か副詞しかないのが生き物の言葉だ。
中国語には四声という変化形がある。
“ああ”と“ああ”と“ああ”と“ああ”とが、みんな違う意味を持つ。
“媽(まあ)”と“麻(まあ)”と“馬(まあ)”と“罵(まあ)”とが、みんな違う意味を持つ。
“媽(まあ)”は母親のことだ。
“麻(まあ)”は麻布のことだ。
“馬(まあ)”は馬のことだ。
“罵(まあ)”はののしることだ。
だが、生き物は四声でなく三声だ。
“ざああ!ざああ!ざああ!”
烏は“かああ!かああ!かああ!”だ。
鶯は“ほおお!ほおお!ほおお!”だ。
八郎はやっと気づいた。
次は月と鼈の問題解決が待ち受けている。
天と地との差ほどあることを、月と鼈と言う。
月は天空にある。
それはわかる。
では下天にあるのが鼈と言うのか。
江戸時代の随筆「嬉遊笑覧」は伝えている。
鼈は甲羅が丸いことから、別称、「丸(まる)」と言い、満月の「丸(まる)」と比較したことから、「月と鼈」とは同じ丸(まる)でも大違いの差があることを意味した。
もう一つの説は、「スッポン」という音は、朱塗の丸い盆である「朱盆(しゅぼん)」が転訛したもので、幕末の役者評判記「鳴久者評判記」で、似て非なるもので、比較にならない様を「下駄に焼味噌」と並んで「朱ぼんに月」を取り上げている。
江戸時代全般では「お月さまと鼈」と表現されていたのが、幕末になってから初めて「月と鼈」と表現されるようになった。
“ざああ!ざああ!ざああ!”
八郎の前に突如現われた杉は樹齢800年の鋼の筋金を葉塊で覆い隠し迫ってきた。
凡夫なら、杉の叫びはただの音に過ぎない。
鬼と化した八郎には、その音は人間の囁きに聞える。
嘗て、この同じ場所で鬼神四郎に国常立命(クニトコタチノミコト)が降臨した。
「ガツン!」と竹林全体がこだまで響くぐらいの音がした。
ちょうどその近くに地蔵が祀ってあったが、四郎はその地蔵と同じく石像のようになったままで立っていた。
気がつくのに1分ほどのものだったが、四郎にとっては何年も経過したような錯覚を感じるほど、それは長い暗闇の沈黙の中での別世界の体験だった。
自分の体に異変が起きる予感がしたが、すぐに普段の意識に戻って何事もなかったように神社の階段の前にさしかかった。
そこで一礼するのが慣習になっていて、頭を下げようとしたが下がらない。
体が直立した状態から曲げることが出来ないのだ。
四郎は、先ほどの出来事が自分にとって重大な出来事であることをその時悟った。
一礼もせずに階段をあがり、本殿の前に立って柏手を二回打った。
これもお決まりの行事なのだが、その瞬間(とき)再び、「ガツン」という大きな音と共に、頭上に強烈な衝撃を受け、「鬼じゃ、鬼が入ったぞよ」と大きな囁きを胸の辺りで聞いた。
2001年4月1日。
人類史上比類のないひとりの悪魔が誕生した瞬間であった。
その日以来、四郎は完全に人が変わってしまった。
しかしその異変を彼自身認識していなかった。
2日が経過した。
その間アパートから一歩も出ず、何も食べず、眠ることもなく、ぼっとした状態が続いた。
ただ“デビル・デビル・デビル”と囁きだけが続いた。
“ざああ!ざああ!ざああ!”
“デビル・デビル・デビル”
“ざああ!ざああ!ざああ!”
“デビル・デビル・デビル”
杉の大木という植物と、田島八郎という動物との間に感応が起こった瞬間だった。
“お前は鬼じゃ!”
杉の大木が囁く。
“鬼は鬼らしくなくてはならぬ”
“凡夫は凡夫らしく生きるしかないように、鬼は鬼らしく生きるしかない”
自然の言葉は実にシンプルだ。
余計な言葉など一切ない。
“奇麗”なら“キレイ”だ。
“醜い”なら“ミニクイ”だ。
歴史は大衆によって動いたことはない。
歴史を動かす者は個に徹しなければならない。
人間は徒党を組むとロクでもなくなる。
一頭の羊に率いられた百頭の狼の群れより、一頭の狼に率いられた百頭の羊の群れの方が強い。
“多数の俗人から認められず、少数の友人から認められることは楽しい”
中国の「伝習録」は言う。
“天下これを信ずるも多しと為さず、一人これを信ずるも少なしと為さず”
大勢の凡夫はどうでもいい、自分というものを本当に認めてくれる一人の友人がいれば十分である。
“お前は鬼じゃ!”
杉の大木が囁く。
“鬼は鬼らしくなくてはならぬ”
“凡夫は凡夫らしく生きるしかないように、鬼は鬼らしく生きるしかない”
世の中が堕落するのは、個人が集団に与える影響よりも、集団が個人に与える影響の方が強くなった時である。
まさにこの世は、一頭の羊に率いられた百頭の狼の群れの様相だ。
羊という凡夫は百頭の群れをなして、一頭の狼に率いられるべきだ。
一匹狼はいても、一匹羊はいない。
百匹羊はいても、百匹狼はいない。
ローンウルフという音の響きは心地よい。
ローンシープという音は雑音に過ぎない。
“お前は鬼じゃ!”
杉の大木が囁く。
“鬼は鬼らしくなくてはならぬ”
“凡夫は凡夫らしく生きるしかないように、鬼は鬼らしく生きるしかない”