第十一章 月の使者テンシ降臨

清水山で一心不乱の修行をした冬子が下山することを決意したのは、それから二年近く経っていた頃であった。
祖父母の郡三とハナに別れを告げるために、山麓の「鬼神蜂蜜店」に顔を出した冬子の姿に老夫婦は度肝を抜かれた。
「四郎じゃないのかい?」
ハナが思わずそう呟いたほど、冬子は四郎に変身していたのである。
二十歳前に家出をした四郎がはじめて帰郷して来た時のことをハナは思い出していた。

「四郎や!かあちゃん!」と言うと、ハナは何も言わずにじっと四郎の顔を見つめていたが、急に表情が明るくなって、「とうちゃん、四郎が帰ってきたよ」と奥に向かって叫んだ。
四郎は、4人兄弟の末っ子で、17年前に家出したときは、3人の兄は大阪で勤めていたから、家には四郎しかいなかった。
「どうしたんや、今ごろふらっと帰ってきおって」
郡三の言葉はきつかったが、表情は優しかった。
「また、今度ゆっくりと帰ってくるけど、今日はどうしても話しておきたいことがあったんや。今日中にまた大阪に帰らないかんのや、ちょっとええか?」
まだ午後の3時過ぎだったが、ふたりは店を閉めて家に帰り、四郎の話を聞くことにした。
「そうか、そんなことがあったんか。そやけどその垣内さんにはえらい世話になったんやな。わしらは、お前はもう死んだもんと諦めとったから、垣内さんの養子になったことは、何も言えへん。そやけど、その人たちに迷惑をかけるようなことしたら許さへんで」
郡三が言った。
四郎は、2年前に殺人をしたことは、さすがに言えなかった。
「真面目な人たちに迷惑をかけることは絶対にせえへん。そやけど世の中で、平気で悪いことをしてる奴らには、何をするか自分でも、その時にならんとわかれへんで。さっきも言うたけど、そういう奴らを懲らしめるのが俺の使命なんやから」
「これからしでかすお前のこと、垣内さんは知ってはるんか?」と郡三が聞くと、四郎は戸惑いながら言った。「ある程度のことは知ってはる。そやけど、それが世の中の為になることやと思ってくれてはるから養子にしやはったんや」
「まあ、そんならええけど」と郡三が納得した様子だった。
「まあ、たまには帰ってこいや」と言って、ふたりは気持ちよくバスの停留所まで四郎を見送った。
バスに乗り込む四郎の姿を見ていたふたりは、『あの子も、大人になったなあ!』と思った。

冬子が物心ついた時には、世直しするデビルとしての父の傍にいて、自らもデビと称していた彼女だっただけに、一年以上に亘る修行の意味合いを充分に承知していた結果なのであろうか。
大岡賢治の運転で父・四郎と一緒に敵地横浜に乗り込んだ時のことを、冬子は思い出していた。

「デビ行きたい、あそこへ」と冬子が言った。
「冬子ちゃん、自分のことデビと呼んでいますね」
賢治が驚いたように言う。
「そうなんだ。自分から勝手に言いだしたんだ。いくら俺たちが冬子と呼んでも、自分のことデビって言うんだ」
「不思議ですね。冬子ちゃん、自分の使命を分かっているのですかねえ」
「賢治、お前もそう思うか?俺はこの子はちゃんと分かっているように思えて仕方がない」
朝食を終えた三人は、賢治が売店で買ったポケットカメラで浜名湖をバックに写真を撮った。
車に戻った賢治が父に言った。
「こんな平凡なこと、この十数年間一度もなかったですね。いいですね、こういうのも」
「賢治、お前もそういう風に思うようになったことが年をとった証拠だ。だが臆病にはなっていないだろう?さっき俺が言ったこと分かるだろう?」
父に言われて賢治は納得した。
「ますます強くなってきてるんだ。肉体面の強さには限界があるが、精神面で強くなることは限界がないだけに、恐るべき力を発揮する」
車を運転している賢治に父の四郎がめずらしく話し続けるのを、冬子はじっと聞いていた。
「人間というものは肉体と精神で、できているが、肉体はどんな頑強なものでも所詮80年から100年だ。しかし精神は遥かに長く生き続けるから、無限とはいかないにしてもいくらでも鍛えることはできる。俺の経験と高野山で学んだことから言うのだが、精神力は肉体の持つ腕力の数倍、いや数十倍の力を持っている。体が弱ってくると精神も弱気になるが、精神力で跳ね返すと体力も回復してくる。俺は最近よく思う。国家の力というのは突き詰めてみれば軍事力に拠るのだが、国民の精神力が最後には、ものを言うような気がしてならない。21世紀の力の基準は経済力や軍事力といった物理的力ではなく、精神的力がその柱になる。またならなければとも思うよ」
今まで父がしてきたことは一国の軍隊を敵に回しても一人で戦える強さだった。
その父が今、精神力の強さを強調している。
「それは死というものの本質を知ったからだ。生きるということは、死ぬために生きるのだ。良く生きるということは良く死ぬために生きるのだ。立派に生きるということは立派に死ぬために生きるのだ。人間は生きるということと死ぬということを別だと思っている。だから生きるのが苦しいのだ、辛いのだ。自分で苦しく、辛くしているのだ。気持ちの切り替えで生きることを楽しい、楽なものにいくらでもできることを心身で分かっていない。心身で分かるために、生きるということは、ぞくぞくするような危険なものであることを全身で認めることだ。冬子を見ていると、分かっているように思う」
父が更に続ける。
「人間には人間固有のいろいろな問題があるが、その根元はすべての生物にある本能欲である。本能欲が直接的に発露する動物に比し、人間はいろいろな方便を使って本能欲を充たそうとするから、複雑な問題が生じる。
本能欲の元は子孫保存欲ただ一つである。それは限りある肉体を永遠に維持したいという欲望で、実存欲と言ってもよい。この実存欲から自分の分身をつくる性欲が発生する。また限りある肉体を、できるだけ永らえようとするために食欲が発生する。鉱物や植物はここまでである。
そして性欲と食欲を充たすために支配欲が生れる。
他の動物はこの支配欲を腕力で得ようとするから争いが生じる。争いは動物だけの特性である。
動物の中で、人間は腕力的には極めて弱い部類に入る。すなわち人類である。
ところがある時、突然変異が人類に起こった。
精神分裂症である。
原因は二本足で歩くことを憶えたからである。すなわち手と足の分化が起こり、手と足が別行動できるようになった便利さの反面、精神がばらばらになったのだ。
手と足を使い分けることは強力な武器となったが、反面、精神が分裂してしまった。
これが人間の誕生である。歩くことが出来る類人猿はその名残である。
天地創造の神が自分の姿に近い動物として人間を創った。だから人間には知識や知恵が与えられたなどと言う宗教家は普通の人間より精神分裂症の重い人間である。
重症な精神分裂症患者が宗教を興し、宗教が政治を興し、政治が経済を生んだ。
これが人間の歴史である。
精神分裂症の歴史が人間の歴史である。
名誉欲、権力欲、金銭欲はみんな精神分裂症の合併症だ。
死ぬことを知った人間が、死に関する無知さ故、固有の問題を起こしていることを俺は悟ったのだ。
死というものをもっと理解することが、死を知った人間にとって一番重要なことなのだ。
しかし、生きている人間みんな死んだことがないから、死に対する理解は困難だ。それを如何に、生きていながらにして理解するか。生きていることを、もっと理解することから始めると分かる。それが、生きるということは危険なことだ、ということだ」
父・四郎は賢治に諭した。
「そうであるなら、数十年生きている間、危険に怯えて生きるか、危険を楽しんで生きるかしかない。生きたあとに待ち受けている死が、怯えて生きれば怯えた死になり、楽しんで生きれば楽しい死であるなら、賢治、お前はどちらを選ぶのだ?」
車は横浜インターにさしかかっていた。
父の話を夢中で聞いていた賢治は思わずインターを通り過ぎようとしていた。
「デビ、ここでおりる」
冬子の言葉で賢治はハンドルを回した。
二人が冬子の顔を見たら冬子はニタッと笑った。
横浜インターを出て、三沢の交差点を過ぎた辺りで賢治がマイヤーに電話をした。
「早く着きましたね。ちょうど12時過ぎだから、中華街の例の安記で会いましょう」
賢治は桜木町方面へ向かい、桜木町駅の高架をくぐって左に曲がり元町方面にハンドルをきった。
途中で右側に中華街が見えてきた。
ホテル・ホリディーインの駐車場に車を停め、三人はそこから歩いて5分ほどのところにある安記という店に入った。
メイン通りから外れたところにあるこの店はせいぜい10人ぐらいしか入れない小さな店だが、マイヤーのお気に入りの店で中華粥がうまい。
冬子の姿を見たマイヤーは驚いた。
「デビル様。冬子ちゃんを、お連れになったのですか。これは驚きました」
唖然としているマイヤーを見て父と冬子はニタッと笑った。
「バタン!」という音がした。
マイヤーが腰を抜かしたように椅子に座り込んでしまったのだ。
その横で賢治が笑いながら、
「親鬼、子鬼ですね」と言って、
「すみません、失礼なことを言って」
と父に頭を下げた。
「わたしも冬子のニタッには驚いたよ、まさしく賢治の言う通りだ」
父も笑い出した。
「どうして冬子ちゃんを?」
と訊くマイヤーに父は言った。
「京子が連れて行くようにと言ったので・・・」
と頭を掻いて笑った。
「京子さんは、どうしてそう思われたのでしょうか?」
父は分かっていた。
しかし、「さああ、どうか?」と言うだけだった。
安記名物の中華粥がテーブルに置かれた。
「デビ、これほしい」
マイヤーはまたまた驚いた。
「冬子ちゃん、自分のことをデビと呼ぶのですか?」
「ええ、別に教えたわけではないんですが。自分で自然に」
と言いながら父はお粥を茶碗に入れてくれた。
冬子はその茶碗に向かって、口でフウーフウーふいている。
今度は三人が驚いた。
「会うのは例のBUNDS HOTELですか?」
父がマイヤーに訊いた。
「いえ、今日は元町のクリフサイドです」
おいしそうに中華粥を食べていた冬子が、「デビ、クリフサイドに行く、ぜったいに行く」と言いだした。
「分かっている。冬子はそのために来たのだよ」
「相手は何人ですか?」
賢治がマイヤーに訊いたが、マイヤーは首を横に振った。
「ただ午後4時にクリフサイドだけですか?」
「ええ、そうです」
更に賢治が訊ねた。
「マイヤーさんは相手が何者か分からないのですか?」
マイヤーは言った。
「まだ時間がありますから場所を変えませんか?」
二人は頷いた。
「デビ、ここのケーキたべたい。だけどこっちのお墓にさきに行きたい」と言いだした。
三人は冬子の言われるままだった。
冬子が先頭を歩いて三人があとをついて行った。
外人墓地は丘陵にあるので勾配があって、冬子には危ないと賢治が言ったが、父・四郎は冬子の自由にさせた。
『St. Maria Curie』と墓碑に書かれてあるところで冬子は立ち止まった。
「St. Maria Curieという方は女性でしょうね。ご存知ですか?」
父がマイヤーに訊いた。
マイヤーは呆然として立っていた。
賢治がマイヤーの腕を引っ張ると、気がついたようで話し出した。
「St. Maria Curieと言うのは、私の亡くなった家内です。修道尼でした」
今度は父と賢治が呆然として冬子を見つめた。
冬子は墓碑の前に座って、小さな手で十字を切った。
「デビ、ここに眠っている人よく知ってる。えらい人のおかあさんよ」
4時からのことの話し合いをしようと思った三人だったが、冬子の奇妙な言動に圧倒されて、ただ紅茶を飲むだけだった。
「ここのケーキおいしい」
「我々もケーキ食べませんか?冬子ちゃんもおいしいと言っているのですから」
マイヤーは二人に言うと、二人は頷いた。
「ここの紅茶もケーキも本当においしいですね」
賢治が嬉しそうに言った。
「そろそろ時間もやって来ました。行きましょうか」
店の前に停めた車に乗って四人はクリフサイドに向かった。
正面の駐車場に入ると、数人の男が待っていて、すぐに中に報せに入って行った。
正面のドアーから入ると、右側に大きなホールがある。
ホールには数十人の人間が円いテーブルに既に座っていた。
四人がホールの入り口に立つと、真っ黒な顎髭の男がやって来て言った。
「デビル様、わざわざ京都から来て頂いてみんな感謝しております。お嬢様まで一緒に来て頂くとは光栄です。さあ、こちらへ」
ホールの前には舞台のような演壇があり、その前のテーブルに四人は案内された。
テーブルには、かなり老年の紳士が7人座っていた。
四人がテーブルの前に来ると、彼らは立って迎えた。
黒い顎髭の男がマイヤーのところに来て耳うちすると、マイヤーは少しギクッとした様子だったが頷いた。
演壇に顎髭の男が上がって喋り始めた。
「最高法院70名いや64名のみなさん。遂に、デビル様が我々のところに来て頂けることが実現いたしました。十数年来の我々の念願でした。それまでに我々の多くの同朋がデビル様によって罰を受けて亡くなりました。よく考えてみますと、それは自業自得であり、我々がデビル様を恨みに思っては逆恨みになります。昨夜も6名の最高法院のメンバーが京都でデビル様によって慈悲の死を賜りました。その一人に与えられた慈悲の死は、我々に感動を与えてくれました。
そして、ここに来て頂くことにしたのです。
かつて、イエスキリスト様が我々の祖先を糾弾され、当時の最高法院70名のメンバーによって十字架に架けられました。
そして、イエスキリスト様を裏切った12人の使徒たちがローマ帝国にイエス様の御教えとまったく違ったキリスト教を広め、この二千年間で世界に16億人のキリスト教信者をつくってきました。そしてキリスト教信者によって世界を完全支配してきました。それまでに我々を阻む勢力はいくつか出てはきましたが、その都度打ち破ってきました。12億のイスラム教徒が最大の敵でありましたが、彼らをも膝下に屈服させてきました。
しかし、デビル様の出現で我々は二千年間の因果の報いを受けなければならないことを思い知らされました。
デビル様に来て頂いたのは、二千年前ローマ総督ピラトに、我々祖先が宣言した、イエス様の血は我々の子孫によって贖うとの約束を果たすためであります。
ローマ帝国からヨーロッパ、そして欧米諸国と我々の陰謀は確実に実を結んできたものと思っておりました。
しかし、イエスキリスト様の御教えを真剣に伝えようとした人々が東の国へと移り住み、この日本にもイエス様が十字架に架けられてから三百年も経たないうちに伝えられていたのです。
その頃、我々のキリスト教はローマ帝国にも認められていなかったのです。真理の伝道の広がりの強さを認めざるを得ません。
そして、旧約聖書にあるモーゼ様・イエス様の御教えが、新約聖書が書かれる前に、この日本の地に伝えられていたのです。
我々は、日本の公式歴史書である古事記や日本書紀において、聖書に書かれてある物語と同じことが書かれてあることを知って、モーゼ様やイエス様の真理の教えの強さを思い知りました。
今、ここにYHWH(ヤーヴェ)の神からデビル様に授けられた新たな戒めを紹介して頂き、今度こそはYHWH(ヤーヴェ)の神の戒めを守る決意をいたしましょう。そしてここに集まった最高法院は本日を以って二千七百年の幕を閉じることに決定いたします」
父が演壇に上がるよう促された。
父が演壇に上がると大きな拍手が起こった。
深々と頭を下げた父は目をつぶって口を開いた。
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父の言葉を聞いた彼らは感動していた。本当に感動していた。
その時、うしろ側のテーブルから呻き声が聞こえた。
「やはり、彼らか!」
同じテーブルの長老格の男が叫んだ。
「気をつけなされ!昨夜あなたを襲った者たちの仲間がまだ六人いるのです。彼らはイエスを裏切った十二人の使徒の魂を受け継いだ者たちです。昨夜、あなたに鳥居で十字架刑にあった者はポールと言ってイギリスのプロテスタント・パリシー派の最高権力者です。
彼は、あなたの死への誘いに感動して、最後に良き死に方をしました。
しかしまだ六人が残っており、ピーター、トーマス、フィリップ、ユダ、ジェイコブス、ジョンと言いますが、彼らはあなたに復讐をすると言っておりました」
それを聞いた賢治は父と冬子の前に立ってガードしようとした。
「賢治、そんな必要はない。彼らは自ら毒のワインを飲んだのだ。わたしは演壇から彼らの殺気を感じていたが、戒めの言葉を言っている最中に急に殺気がなくなり、彼らを見たら涙を流していた。懺悔の言葉すら出せなかったのだろう」
冬子が突然彼らのテーブルに走っていった。
「ああ、危ないから行っちゃ駄目だよ!」賢治が止めようとしたが、父は賢治の腕を引っ張って首を横に振った。
冬子は後ろのテーブルで呻いている六人のところへ行って、口から血を流している彼らに口づけをしてやった。
すると、毒が胃を焼き尽くして激痛に震えている彼らの表情が変化し、苦痛の表情から喜びの表情に変わっていった。
しかし冬子はユダという男だけには口づけをしなかった。
その男は胸を掻きむしり悶えていた。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と冬子が言うと、その男は目を大きく開け、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ!(神よ、何故わたくしを、お見捨てになったのですか!)」と言った。
すると冬子はそのユダという男にも口づけをした。
ユダという男は微笑を浮かべながら息を引き取った。
冬子を抱きあげた父は、冬子の口がまったく血に染まっていないのを見て、ホールにいるみんなに言った。
「これは決して奇跡が起きたのではない。この子の純粋な気持ちが毒の血であっても寄せ付けない力を持っていることを証明したのだ。イエスが悪疫患者に触れたときも、イエスの純粋な気持ちのパワーが強いため悪疫の菌が流れ込んでいかなかったのだ。この子の口の中には、毒の血が流れ込まないのだ。そして逆に純粋な善意の気持ちが彼らの口の中を洗ってくれただけである。気持ちというものも、あらゆる物質と同じエネルギーであるから、エネルギーの質を変えることで物質の中身まで変えてしまうのだ。純粋な善意の気持ちが、如何に大事であるか分かっただろう」
マイヤーと賢治は感動のあまり号泣した。
大柄な男が父のところに寄ってきて握手を求めた。
父はまだ油断はしていなかったが、マイヤーの知己であることを知って握手に応じた。
大柄の男はマイヤーに英語で言った。
「デビル様の提案された政府民営化は結局官営政府と同じように堕落してしまいます。資本主義と民主主義のパッケージは、所詮官僚と共産党のパッケージと同じで民間企業と民間政府の癒着関係になります。それより世界を一国家にすることが戦争のない人間社会になる。と言っています」
マイヤーは父に通訳して言った。
「民営政府は5年間しかやらない。その5年間に無政府国家をつくるのがわたしの最終目標です」
父は言い切った。
マイヤーから父の話しを聞いた大柄の男は驚いた様子でマイヤーに言った。
「政府のない国家なんて有り得ない。それでは国は無法地帯になり、他の国から侵略を受けたら、国家は壊滅です。と言っています」
父がマイヤーに言った。
「あなた方は、先程の戒めを、まだ分かっておられない。人間があの戒めをみんな守れば何ら問題は起こらない。問題はみんな守るかどうかです。それを人間というものは守らないという前提で考えておられる。それなら如何にしたら守るようになるかを考えればいい。この発想がまず大事ではないでしょうか。世界中のすべての国家の憲法に、軍隊は他国からの侵略に対する防衛手段だと明記してあります。すべての国の憲法が防衛手段だけで、憲法を絶対遵守する気があるなら軍隊など要らないはずです。そんな憲法や法律など現実問題になったら何の役にも立たないことは歴史が証明しています。政府の根本機能は立法です。それなら政府は不要です。世界で唯一スイスという国だけが無政府国家の雛型だと言えるでしょう。1815年にナポレオンが敗退したのをきっかけに永世中立を宣言した。しかしその目的は国内の平和が主だったため、スイスの永世中立宣言に追随する国家がなかった。しかし第一次世界大戦に中立を守ったスイスは、やはり中立が平和に最も貢献出来ると世界から認められ1920年のロンドン会議で真の永世中立国家となったのです。その後ハプスブルグ家の独裁だったオーストリアも永世中立宣言をした。他の国も彼らに追随すれば、第二次世界大戦も悲惨な原爆も、その後の多くの戦争も避けられたかもしれません。それを阻止したのが国連の存在です。国連さえあれば中立宣言しなくても、他国の侵略から国連が守ってくれると多くの国が信じたからです。しかし実態は大国のエゴを通す機関でしかなかった。これからでも遅くないから、まず第二のスイス、第三のスイスを目指す国が出てくることです。その動きが広まれば、必ずや政府の要らない国家が実現できるでしょう。原爆を落とされた日本が、落としたアメリカに今でも追随しているのは国家としても、民族としても、人種としても、一人間としても恥ずべきことです。わたしはアメリカに復讐をしろと言っているのではありません。そのような悲惨な経験をした貴重な国だから、二度と同じ過ちを人間が冒さないために永世中立国家として宣言すべきだと思っています。仇打ちの繰り返しを冒さないためにも、日本が今こそアメリカと袂を分かって永世中立宣言を世界の平和の為にもするべきです。
今日2018年4月1日。民間政府の発足も、永世中立国を目指しての第一歩であり、永世中立国が日本のあとを雨後の竹の子のように増えてくれれば、政府のない国家が実現し、あなたたちの念願の世界一国家も夢ではなくなるでしょう。そのとき人間が自主的に守るルールが、わたしが今、申し上げた戒めではないかと思うのです」
ホールはシーンとなって、みんな父の話を真剣に聞いていた。
大柄の男が演壇に立った。
「最高法院、いや今、最高法院は消滅しました。みなさん、デビル様の言われたことは、これからの人間社会の規範となるべきことだと思います。賛同して頂ければ、我々もデビル様の目指されている国家づくりに参加してみたいと思いますが如何でしょうか?」
みんな立って万歳をした。
みんながマイヤーの屋敷に帰った時は、もう10時を過ぎていた。
冬子は父に抱かれて車の中で眠っていた。
「わたしの使命は、以前にも申しましたように冬子に継がれて、たとえ私が死んでも2100年まで続きます。京子は冬子を自分の子として諦めました。大きな使命を持った人間を自分の子だと言うわけにはいきません。イエスが処女のマリアから生まれたなんて道理が通りません。しかし、イエスの母は処女でなければならなかったのです。冬子は自分の体の分身だというわけにはいかないと言うのです。冬子は私が育てなければなりません。結局こういう結果しかなかったのです」
父の話に賢治が言った。
「使命とはいえ、あまりにも惨いではないですか?」
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冬子はマイヤーを殊の外、気に入って、屋敷の庭で一緒に遊んでご機嫌だった。
その時、マイヤーはキーンという耳鳴りのような音がして突然、沈黙の世界に放り投げられた。
ふらふらと平衡感覚を失って芝生の上に仰向けに倒れた。
冬子は事の重大さを察知したらしく、まわりを見渡したが屋敷には誰もいないのを悟って、仰向けに倒れているマイヤーの目がしらに手を当てた。
冬子は必死にマイヤーの目に手を当てていたら、10分ほど経ってマイヤーの意識が戻った。
「冬子ちゃんが助けてくれたのかい?ありがとう」
と言ってマイヤーは息を引き取った。
しかし、冬子は諦めなかった。
1時間以上、冬子は息を引き取ったマイヤーの目に手を当てて祈った。
その時、奇跡が起きた。
マイヤーが息を吹き返したのだ。
「冬子ちゃん、ああ神様、何というありがたいことか。わたしはもうあなたの処に召されるのでしょうが、デビル様にもう一度お目にかかれる機会をお与え下さった」
まさにその時、投票を終えた父たちが戻って来た。
庭にいる冬子とマイヤーを見て父は飛んできた。
「マイヤーさん。どうしたんですか?しっかりして下さい」
「ああ、デビル様。わたしは、もうあなた様にお目にかかれないはずでした。冬子ちゃんがそれを食い止めてくれました。この方は間違いなくデビル様の使命を引き継がれます。そして、わたしも寿命が尽きる時が来たようです」
父は悟ったようだった。
「いいですか、マイヤーさん。わたしの言う通りの気持ちになって下さい。
目を瞑ったら小さな光が見えてくるでしょう?」
マイヤーは目を瞑りながら頷いた。
「光がだんだん大きくなってくるでしょう?」
マイヤーは頷いた。
「大きくなった光があなたの体をすっぽり包んでいくでしょう?」
マイヤーは頷いた。
「あなたの体を包んだ光がどんどん速くなって行くでしょう?」
マイヤーは頷いた。
「ちょっと上を見て下さい。満月が見えるでしょう?」
マイヤーは頷いた。
「あなたの体を包んだ光がものすごい速さで満月に向かっていくのが分かりますか?」
マイヤーは頷いた。
「さあ!あなたはいかなる人類よりも一番早く月に移住したのです。月に到着したのが分かりますか?」
マイヤーは頷いた。
「わたしたちも後を追いかけて行きますから、待っていて下さい」
マイヤーは微笑み、頷いて、そして小さく穏やかな声で父に言った。
「アレルヤ!」
賢治がマイヤーに言った。
「マイヤーさん、賢治です。国民投票で日米同盟破棄が賛成過半数で採決されました。これで永世中立国へ一歩前進です。あなたの願っていた永遠の平和にまた一歩近づきましたよ!」
今度は大きな声を振り絞って叫んだ。
「アレルヤ!アレルヤ!」
マイヤーは一足先に月に行った。
誰も泣いてはいなかった。
いずれ月で再会出来ることを信じていたからだ。
翌日、マイヤーの棺を車に載せて四郎たちは京都に向かった。
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垣内老夫婦の家には、かつてお仕置きの時代の父の仲間たちが集まっていた。
エンジェルジュニアーの連中たち、その中の一人野島金太、タクシー仲間のエンジェルたち、垣内老夫婦の息子、遼太郎、天神社の宮司奥井忠雄、そして父の両親の郡三とハナも待っていた。
「おとうちゃん、おかあちゃん。来てくれたんか!」
末(すえ)・婆さんが言った。
「こんなに、あの世とこの世の人たちが沢山集まって賑やかでいいのう。マイヤーさんは幸せ者じゃ」
祖母の家だけが月に映されていた。
一人が言った。
「月の家が地球に映っているのかのう。それとも地球の家が月に映っているのかのう。まあどっちでもいいよのう。綺麗なものはどこでも綺麗じゃわい」
月の使者テンシが冬子に降臨した瞬間だった。