第一章 風の訪問者

2033年6月。
沖縄。
初夏の那覇に、ひとりの旅人が訪れた。
左手に小さな鞄を持ったその男は那覇空港に降り立った。
椰子の木の枝がさらさらと風になびいてその男に囁いた。
『いらっしゃい、琉球へ。あなたをずっと待っていたの・・・』
沖縄の人にとって、その男がやって来ることは、積年の願いであった。
その男は、なびいた風に、優しく囁いた。
島唄よ 風に乗り 鳥と共に 海を渡れ
島唄よ 風に乗り 届けておくれ 私の愛を
海に向かってなびいた風が、その男に囁いた。
『ありがとう。わたしたちのためにやって来てくれて・・・』
椰子の木にとまっていた一羽の鳥が、その男にさえずった。
『いらっしゃい、琉球へ。わたしたちの願いを叶えて・・・』
右手を振って、その男は鳥に応えて、囁いた。
島唄よ 風に乗り 鳥と共に 海を渡れ
島唄よ 風に乗り 届けておくれ 私の愛を
一羽の鳥は、海に向かって飛びながら、その男にさえずった。
『ありがとう。わたしたちのためにやって来てくれて・・・』
その男は、真っ青な空を見上げて優しく微笑んだ。
『これからが、本当の・・・これからが本当の・・・・・・』
その男の名は田島八郎。
空港ターミナルを出た八郎に一人の女性が話し掛けてきた。
「田島さんでしょうか?」
常夏の沖縄に相応しい健康美人の女だ。
「そうですが・・・?」
八郎は怪訝な表情で疑問符を投げかけた。
「首里の都ホテルまで、わたくしがご案内するように仰せ付かりました・・・」
「あなたは?」
八郎という男は余計な言葉を徹底して避けるらしい。
「石嶺リエと申します。今後ともよろしくお願い致します」
表情も言葉も硬いが、そのハスキーな聞きとり難い声が聞く者を和ませる。
「それとも宿泊先は既にお決まりですか?」
相手の気持ちになって聞いてくる女の言葉の響きが心地よい。
「いや!」
何とも愛想のない返事をする八郎だが、言葉の響きにおいては、女と共通するものがある。
「では都ホテルまでご案内しますわ!」
女の微笑は初夏の沖縄の太陽のようにキラキラと輝いていた。
国道332号線、通称、空港通りを北上して、国場川(こくばがわ)を渡り切った女の運転する車は那覇市街地に入って行った。
沖縄県庁を過ぎると、再び、次の河口が見えてくる。
安謝川(あじゃがわ)の河口だ。
流石に南洋の島だ。
迫ってくる山の麓に小さな三角州デルタの村があり、その向こうに大洋が横たわっていて、静かに音も立てずに流れ出る河口がある。
首里城を右手に眺めながら、車は都ホテルの玄関に滑り込んだ。
ベルボーイから鍵を受け取った女は、車から降りてきた八郎に、その柔らかな手を差し伸べた。
「チェックインは既に済ましました。これが部屋の鍵です」
キーホルダーに彫られてある『332』という数字を横目で見ながら、その女は八郎に手渡した。
「今晩8時にお迎えに伺いますので、それまでごゆっくりなさってください・・・」
女の手の感触が心地よい。
「ああ!」
八郎は無愛想な返事をしたが、女はそんな彼のことが気になって仕方なかった。
南洋の女は情熱的だが、表面的には慎み深い。
情熱は慎み深いほど強く燃え上がるからだ。
表面上の情熱は、底では冷え切っている。
上がる火の本質であり、情熱の本質である。
下がる水の本質であり、冷徹の本質である。
女の名前はリエという。
『米軍の落とし孫かな・・・』
332号室の部屋で八郎は女のことを考えていた。


1943年12月1日。
フランクリン・ルーズベルトはチャーチルとスターリンの仲を取り持ってテヘラン巨頭会談を催し、ノルマンディー上陸作戦を決定した。
ヒットラー率いるナチス・ドイツ軍に侵略されたスターリンのソ連は自国防衛のためナチス・ドイツ軍を挟み討ちにする第二戦線樹立を連合軍に求めていたが、チャーチルは東南欧・バルカン作戦を主張。
両者の間に立ったアメリカ大統領ルーズベルトがテヘラン会議を提唱したことで、ノルマンディー上陸作戦が決定したのである。
1944年6月6日。
アイゼンハウアー総司令官の指揮の下に、北フランスのノルマンディー沖への連合軍・上陸作戦が成功し、1944年8月25日パリがナチス・ドイツ軍の手から解放された。
イタリア・ファシスト党首ベニート・ムッソリーニは1943年の連合軍イタリア上陸で失脚、パルチザンによって北イタリアで絞首刑に処せられていた。
連合軍の上陸作戦はルーズベルトの名を世界に轟かせた。
『よし!残るはパールハーバー作戦の罠に嵌ったジャップスだけだ!』
ルーズベルトは大統領執務室でほくそ笑んだ。
1945年4月1日。
アメリカ軍は読谷村から嘉手納・北谷に延びる海岸線から上陸作戦を敢行した。
アメリカ軍は首里城に集中砲火を浴びせながら南進、追いつめられた日本軍は5月27日南部へ撤退、そこで住民を巻き込んだ悲惨な地上戦が繰り広げられた。
沖縄師範学校女子部・石嶺礼子。
アメリカ軍の南進で撤退してきた日本陸軍病院第三外科の看護婦として任務に当たっていた洞窟の中に、アメリカ軍のガス弾が打ち込まれた。
看護に当たっていた二百数十名の女子学生がガス弾に倒れたが、死ぬ苦しみだけで済んだ彼女らはまだ幸せだった。
洞窟の入り口にいた礼子は爆風で吹き飛ばされたのが幸いして、かすり傷だけで済んだことが、その後の悲劇を生んだ。
女子学生の姿を見たアメリカ軍の兵士たちは、完全に理性を失った獣と化した。
獣姦と輪姦の交錯する中で地獄の世界を見た礼子に、悪魔の止めの烙印が押された。
1946年1月27日。
石嶺礼子は女の子を産み落とした。
リエの祖母・石嶺夏子の誕生である。

八郎はインターネットで一通のメールを受け取った。
“沖縄は本土の人柱になりました。
 今度は本土が沖縄のために人柱になってもらわなければなりません。
 嘗てデビルと称した方が、日本の国をお仕置きされました。
 デビルと称した方のお嬢さんが、その後を継いで、デビと自称され、新しい人間社会を創造されると聞き及びました。
 若し、貴方様がデビであるなら、6月15日に沖縄へいらして下さい。
 那覇空港までお迎えに行きます。”
『あのメールの送信者が石嶺リエだろうか・・・』
332号室の部屋で石嶺リエのことを考えている内に、八郎は眠ってしまった。
「リーン。リーン。リーン。」
電話の音で八郎は眠りから覚めた。
「石嶺リエです・・・」
受話器の向こう側からリエの声が聞こえた。
目を閉じたまま受話器を取った八郎だが、リエの声で目を開けると、リエが既に部屋の中にいた。
『夢なのか?』
夢うつつの中にいる八郎は、夢か現実(うつつ)か暫く判断できないでいたが、リエは確かに目の前にいる。
その瞬間(とき)、ベランダから青い風が舞い込んできた。