8.戦後賠償責任を果たしていない日本

王宮に乱入するという蛮行の様子を外国人や朝市に集まる朝鮮人に目撃されて、公衆の知るところとなって、ひっこみがつかなくなった伊藤博文首相、陸奥宗光外相、大鳥圭介朝鮮駐在公使、すなわち、日本政府は、事件にかかわった日本の軍人や民間人を朝鮮から退去させ、いったんは広島で収監したが、結局、この事件で処罰された日本人はひとりもいなかった。
日本政府・日本軍も頬被りをし、事件はうやむやにほうむられた。
第二次世界大戦後の日本政府文書(『日本外交年表主要文書』)でも、「朝鮮大院君我士軍隊に擁せあられクーデター、閔妃殺害さる」としか書かれていない。
「坂の上の雲」でも作者は、事件当時、朝鮮駐在の杉村公使館員が後に書いて刊行した「明治27・8年在韓苦心録」(1932年刊)など、この事件の当事者が書いた記録があるのに、事件にまったくふれることはなかったのである。
先の中塚明著「司馬遼太郎の歴史観」(サブタイトル:その「朝鮮観」と「明治栄光論」を問う)はこう続く。
「朝鮮王宮占領、それに抗議した朝鮮農民軍の再蜂起と日本軍によるその皆殺し作戦、さらに戦後の朝鮮王妃殺害事件−この三つの出来事は、鎖でつながっているかのように、相互に関連しています。そして、三つとも、日本政府はことの真相を内外に公表しませんでした。
日清戦争当時、日本はまだ「軍事小国」であって、日本の指導者も欧米諸国の世論をたえず考慮しながら政策をすすめようと努力した、それが1930年代のように暴走した時代の日本との大きな違いであるとは、今日、しばしば聞く議論です。
たしかに、日清戦争当時、陸奥宗光外務大臣も欧米諸国の世論には、細心の神経を使ってことをすすめていました。しかし、彼をふくめて日清戦争当時の日本政府・日本軍部の指導者が、朝鮮にたいしてなにをしたのか、その話が立ち入って語られることはまずありません。彼らが朝鮮に対してなにをしたのか、まるでなにもしなかったかのように語らないで、日本の指導者が欧米諸国の世論をたえず考慮しながら政策をすすめようと努力したことをもって、この「明治の時代」と「昭和の暴走」の時代を断絶させて論じるのは、それでよいのでしょうか。大きな忘れ物とさえ気づかずに、すませることになりませんか」