23.伍代友厚(薩摩ナインティーンのリーダー)

長州五傑(ファイブ)の英国密航より半年遅れて、薩摩ナインティーンが英国へ密航した。
国を売るという同じ目的である。
薩摩ナインティーンのリーダーこそ伍代友厚である。
先ずは、昭和31年現代社から出版された、大阪の作家、織田作之助の「伍代友厚」を紹介しておこう。
1862年(文久二年)8月21日に起きた生麦事件の「後始末」に絡んで、薩摩藩士・伍代友厚という人物がどのように登場し、活躍したか?
薩英戦争中、故意に捕われたり、解放後も「開国論」を唱えたため「攘夷論者」からつけねらわれたり、ようやく認められてイギリス留学を果たしたり、といった前半生が、織田作之助独特の「語り口」で述べられているが、「伝記」とも「歴史小説」ともつかぬ、中途半端な作品で、もうひとつ作家として何が言いたいのはわからない、という感想である。
ところが、
同書物に付録としてついていた「勧善懲悪」という作品が実に興味深い。
大阪経済勃興の立役者と称せられた伍代友厚だけに、浪速人である作者はすばり糾弾できなかった鬱憤をここで晴らしているかのような作品だ。
いわば、「伍代友厚」の番外編(登場人物は、伍代友厚とは無関係だが、伍代友厚のことを暗示している)。
悪徳業者(伍代友厚)の「内輪話」である。詐欺まがいの霊感商法で、しこたま儲けた商人(川那子丹造・古座谷某)が、「悪銭身につかず」のことわざ通り、「見事に」落ちぶれて、“想えば、お互いよからぬことをしてきた報いが来たんだよ。今更手おくれだが、よからぬことは、するもんじゃない。おれも近頃めっきり気が弱くなった。お前のように・・・。”と反省、まさに「勧善懲悪」を絵に描いたような物語であり、大阪経済の重鎮にはなったけれど、昔やった悪行はやはり消えるものではない、と作者はいいたげだ。
そこで、
薩摩ナインティーンの話に戻ろう。
薩摩ナインティーンと言っても現実に登場する人物は伍代友厚と寺島宗則や森有礼だけである。
そこで、
伍代友厚が大阪経済勃興の立役者であったことを証明する、彼の業績について下記しておこう。
1868年(明治元年)に明治新政府の参与職外国事務掛となったのをきっかけに、外国官権判事、大阪府権判事兼任として大阪に赴任し、堺事件、イギリス公使パークス襲撃事件などの外交処理にあたった。
また、大阪に造幣寮(現・造幣局)を誘致し。初代大阪税関長となり、大阪税関史の幕を開ける。
1869年(明治2年)の退官後、本木昌造の協力により英和辞書を刊行。
また、
硬貨の信用を高めるために金銀分析所を設立。
更に、
紡績業・鉱山業(奈良県天和銅山・福島県半田銀山など)・製塩業・製藍業(朝陽館)などの発展に尽力する。
薩長藩閥政府との結びつきが強く、1875年(明治8年)に大久保利通、木戸孝允、板垣退助らが料亭に集って意見の交換を行った「大阪会議」や、黒田清隆が批判を浴びた開拓使官有物払下げ事件にも関わり、政商といわれた。
他にも、
大阪株式取引所(現・大阪証券取引所)、大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)、大阪商業講習所(現・大阪市立大学、天王寺商業高校)、大阪製銅、関西貿易社、共同運輸会社、神戸桟橋、大阪商船、阪堺鉄道(現・南海電気鉄道)などを設立した。
鹿児島市泉町(泉公園内)、大阪市中央区の大阪証券取引所前、大阪商工会議所前には銅像が建立されている。
大阪での評判とは逆に、彼の故郷、鹿児島では評価が極めて低い。
同じ大阪出身の作家である司馬遼太郎と織田作之助が評価する伍代友厚観の違いは一体何故だろうか?
どっちかがおかしいのは言うまでもない。