22.売国奴・長州ファイブ

維新の三傑と言えば、薩摩の西郷隆盛、大久保利通、そして、長州の桂小五郎を言うが、同じ長州の伊藤博文、井上馨、井上勝、山尾庸三、遠藤謹助の五人が長州五傑(ファイブ)と呼ばれるのはなぜか?
維新の三傑は、まさしく明治維新を成し遂げる功績を上げた人物に対する尊称だが、長州五傑(ファイブ)は明治政府の地盤をつくり上げた功績に対して称えられたものであろう。
現に、
日本ではじめて大坂に造幣局が建てられたのは、1870年(明治3年)で初代造幣局長が井上馨、2代目が井上勝、そして伊藤博文、遠藤謹助と続き、何と最初の四代まで長州五傑(ファイブ)で占められていることからも一目瞭然である。
現在の造幣局は紙幣は印刷していないが、日本ではじめて人物像(神功皇后像)の入った紙幣が1883年(明治16年)に印刷されたのは大坂の造幣局であり、当時の大坂の造幣局は大蔵省(現在の財務省)のようなものであった。
お金を発行する絶対的な権力を持っていた処を長州五傑(ファイブ)は独占していたのである。
この長州五傑(ファイブ)は、明治維新の肝腎な時に日本を脱出し、英国へ密航していた。
そして、当時の世界最大の銀行であった英国銀行を訪問し、銀行の何たるかを学び、維新成立後の大坂に造幣局をつくったのである。
お金を印刷する中央銀行は国営であるべきなのに、英国銀行の株主の所在が不明な点において、英国銀行は英国国民から非難を受けていた。
こんな言葉が囁かれていたのも一つの理由であろう。
「もし私に一国の通貨を発行する権限を与えてくれたならば、その国の法律を超越した存在になるだろう(アムシェル・マイヤー・ロスチャイルド)」
そんな英国銀行を訪問した長州五傑(ファイブ)は帰国後、すぐに大坂に造幣局をつくったのである。
時に1870年(明治3年)のことである。
明治日本は、そのはじまりからすでに売国奴が跳梁跋扈する国だったのである。
何が「少年のような国」か!