17.ロシアの韓国論

徳川幕府の下、大名が分散支配していた江戸時代の制度を改革し、幕府を倒して日本全体を統一的に支配する中央集権的な国家体制をつくって二十余年。この日本をどのようにして欧米列強と対等の地位に押し上げるのか、日清戦争はまさにその好機でした。
陸奥宗光外務大臣は首相の伊藤博文と緊密に協力しつつ、当時の主に国際的な歴史的条件をたくみに利用し、その好機を現実化するのに辣腕を振るったのです。
その国際的な条件の一つは、東アジアをめぐる列強、とりわけイギリスとロシアの対立でした、当時、日本がこれから攻めていこうとしていた朝鮮や中国は、まだ特定の帝国主義国の支配下におかれているという情況ではありませんでした。それでいて、列強による世界分割の最後の地域として、この地域が注目されつつある時期でもあったのです。
日本は明治のはじめから朝鮮を自国の勢力下におくことを対外政策の一つの柱としており、すでに1876年(明治9年)、朝鮮にたいして一方的に不平等な修好条規をおしつけていました。
しかし、この日本の朝鮮政策は、一つには朝鮮官民のなかに反日の動きをつくりだし、もう一つは朝鮮に対して宗主国であることを主張する清国との対立を年とともにつのらせることになりました。
こうした日清両国の対立に加え、イギリス・ロシアの対立が朝鮮にもおよんできます。
1885年(明治18年)、イギリスは朝鮮の南海岸と済州島との間にある巨文島を占領する事件をひきおこします。また1891年(明治24年)には、ロシアがシベリア鉄道を起工し、東進の準備をすすめることになります。
こういう情況が進むにつれ、日本では当時から今日に至るまで、ロシアに対する過剰ともいえる警戒の念が高まるのですが、日清戦争前においても、当時のロシアの朝鮮政策について、正確な判断が下されていたかというと、それははなはだ疑問です。
日清戦争前後の朝鮮をめぐる清国・ロシア・イギリスの関係は、一般に日本で理解されているよりも複雑であり、その実態については、佐々木揚さん(佐賀大学教授)による克明な研究があります。
佐々木さんの清国・ロシア・イギリス各国の史料にもとづく詳細な研究の結果明らかにされたことは、巨文島事件後のロシアの対朝鮮政策は、日本で普通考えられているように、ロシアが朝鮮を侵略し、それを支配下に置こうというようなものではなかったということです。
ロシアには、朝鮮が清国または日本の手中におちいるとすれば、ロシアのウスリー州に重大な脅威となりうるとの認識はあったにしても、大局的には、朝鮮は経済的には貧しく、軍事的には長い海岸線のゆえに防衛困難であり、外交的には朝鮮侵略はイギリス・清との決裂をもたらし、それ故に「朝鮮獲得はロシアに何の利益も約束せぬばかりか、必ずや非常に不利な結果を招来しよう」という認識が、ロシアの朝鮮政策の基礎にあったということです。しかし、日清戦争による日本の勝利は、東アジアの情況に劇的な変化を引き起こします。
佐々木さんの論文のまとめともいうべき最後の部分を紹介しておきます。
「しかしながら、清国ではなく日本が朝鮮の現状を破壊するかもしれぬという可能性があることは、日清戦争開戦当時からロシア政府当局者もこれを認めていた。そして日清戦争が日本の勝利のうちに展開するにつれて、この可能性はいよいよ現実性を増すとともに、他方、日本が戦線を清国領土に拡大し、1895年四月下関講和会議において遼島半島の割譲を要求するに至るや、極東問題とは第一義的に朝鮮問題であるというロシアの極東政策の前提は完全に崩壊し、極東問題は目前に迫った清国分割をめぐる問題に変貌したことが明らかとなるのである。ここにおいてロシア政府は、日清開戦以来、不安定要因をはらみながらも継続していた極東問題についての英露協調がイギリスが日本の講和条件を黙認したことによって崩れるという状況の急変をふまえて、遼島半島割譲を阻止できるか、或いはそれを容認してロシアもそれに見合う何らかの代償を清国の犠牲において獲得するか、という選択を迫られることになる。そして周知の如くロシアは前者の道を選び、三国干渉が実現する・・・」
以上が、日清戦争終結当時のロシアの朝鮮認識です。(『司馬遼太郎の歴史観』より抜粋)