11.共和制国家・日本は一体いつになったら?

先述の日清戦史編纂のための部長会議が開かれた1903年(明治36年)7月といえば、ときの参謀本部のトップ、参謀総長は、司馬遼太郎が「明治の軍人」として賞賛してやまない大山巌であったこともしっかり記憶しておきたいですね。
「司馬遼太郎の歴史観」は続ける。

司馬の説くまぼろしの戦史編纂論
司馬遼太郎は、戦史編纂について、つぎのようにも言っています。
「その戦争を遂行した陸軍当局が、みずから戦史を編纂するということほどばかげたことはない。たとえば第二次世界大戦が終わったとき、アメリカの国防総省は戦史編纂をみずからやらず、その大仕事を歴史家たちに委嘱した。一つの時代を背景とした国家行動を客観的に見る能力は独立性をもった歴史家たちの機構以外には期待できないのである。
また英国の場合は、政府関係のあらゆる文書は三十年を経ると一般に公開するという習慣をもっている。その文書類を基礎に、あらゆる分野の歴史家が自分の研究に役立ててゆく。
アメリカもイギリスも、国家的行動に関するあらゆる証拠文書を一機関の私物にせず国民の公有のもの、もしくは後世に対し批判材料としてさらけ出してしまうあたりに、国家が国民のものであるという重大な前提が存在することを感じる。
日本の場合は明治維新によって国民国家の祖型が成立した。その後の三十余年後におこなわれた日露戦争は、日本史の過去やその後のいかなる時代にも見られないところの国民戦争として遂行された。勝利の原因の最大の要因はそのあたりにあるにちがいないが、しかしその戦勝はかならずしも国家の質的部分に良質の結果をもたらさず、たとえば軍部は公的であるべきその戦史をなんの罪悪感もなく私有するという態度を平然ととった。もしこのぼう大な国費を投じて編纂された官修戦史が、国民とその子孫たちへの冷厳な報告書として編まれていたならば、昭和前期の日本の滑稽すぎるほどの神秘的国家観や、あるいはそこから発想されて涜武の行為をくりかえし、結局は日本とアジアに十五年戦争の不幸をもたらしたというようなその後の歴史はいますこし違ったものになっていたにちがいない」(文春文庫(八)三四四〜三四五ページ)
この司馬観に対して中塚明氏は鋭敏なとどめをさしている。
「長い引用でしたが、ここには司馬遼太郎の戦史論が集約的にのべられています。
傍線は私(中塚)がつけたものです。日本という国の歴史的な状況を度外視しての一般論としては、この傍線部分の司馬の主張に私は賛成です。
しかし、天皇の専制統治体制、天皇と軍部は直接の上下関係にあり、参謀本部は、議会はもちろん内閣からもなんの指図も干渉も受けない、そういう大日本帝国憲法下の日本の政治・軍事制度のもとでは、司馬のこの議論は成り立ちません。国家の最高機密とされている戦争の情報、軍事情報を記録する戦史の編纂を、民間の学者に任せるようなことを、天皇が絶対の時代の日本で可能なはずはありません」

まさに、
情報化した時代において、国民国家の在り方に君主制(天皇制)のような形態はもはや不可能であることを示唆している。
一刻もはやく共和制国家・日本の実現が望まれる。