10.戦史の偽造

司馬遼太郎によれば、日露戦争に勝ってから日本軍がおかしくなった、その愚行の最初の現れが『日露戦史』の公刊だったと言っていることは、前に述べたが、その司馬の主張は、はたして通用するのか、ということに直接関連すること、として「司馬遼太郎の歴史観」は書く。
「日清戦争最初の日本軍の武力行使、「朝鮮王宮占領」を書いた詳細な戦史の記述を、前に述べたように『日清公刊戦史』のウソの記述に書きかえさせたのはだれか、それはどんな理由によるのか、その経緯もいまでは明らかになっています。
防衛庁防衛研究所に勤務していた五十嵐憲一郎さんが同研究所の図書館で見つけた参謀本部部長会議の決定の簿冊(文章を綴ったもの)から、この日清戦史改ざんの決定的な記録を発見し、史料として紹介したのです。
「日清戦史第一第二編進達ニ関シ部長会議ニ一言ス」(明治36年1月起、参謀本部部長会議録7月1日)がそれです。
原文は防衛研究所図書館所蔵『秘明治35年5月起、部長会議録第一号、佐官副官菅』にあります。
簿冊の「請求記号」は「参謀本部雑M35〜19ー135」です。
提案したのは参謀本部で戦史編纂を担当していた第四部の部長、大島健一陸軍大佐です。(ちなみに大島健一の長男、大島浩も陸軍中将まで昇進、1938年=昭和13年、ドイツ大使となり、日独伊三国同盟を推進する立場で活動しました。
司馬遼太郎は、参謀本部についてこう言っていました。
「参謀本部にもその成長歴があって、当初は陸軍の作戦に関する機関として、法体制のなかで謙虚に活動した。
日露戦争がおわり明治41年(1908年)関係条例が大きく改正され、内閣どころか陸軍大臣からも独立する機関になった。やがて参謀本部は“統帥権”という超憲法的な思想(明治憲法が三権分立である以上、統帥権は超憲法的である)をもつにいたるのだが、この時期にはまだこの思想はそこまで成熟していない。だから、日韓合併の時期では、のちの“満州事変”のように、国政の中軸があずかり知らぬうちに外国に対する侵略戦争が“参謀”たちの謀略によっておこされるというぐあいではなかった。
しかし、将来の対露戦の必要から、韓国から国家であることを奪ったとすれば、そういう思想の卸し元は参謀本部であったとしか言いようがない」
日露戦争までは参謀本部も「謙虚に活動した」と司馬は書いていますが、しかし、ここにかかげる日清戦史改竄の提案は、日清戦争から8年はたっていましたが、まだ日露戦争の前、1903年(明治36年)のことです。
大島健一の提案はたいへん難しい言葉を多用していて、そのままではわかりにくいので、思いきって意訳して紹介することにします。
一、すでにできあがった草案を読んでみた。この草案は、遠慮なく事実の真相をありのまま書いてあり、将来の戦争で軍隊を動かす際の研究資料として役立て、また一方で軍事の素養がなく東洋の地理などに通じていない人たちに、戦争の経過を知らせるのを重点としている。
二、右の主旨に基づいて、戦争の原因をのべるにあたって、大本営や参謀本部など軍部では早くから軍事力で事を解決しようとし、一方、内閣はことさらに受け身の立場に立ち、というのは戦争になる原因は外国にあって、日本はやむをえず戦争に立ち上がらなければならないようにさせられていると見せ、つとめて軍事力に訴えるということを表に出さないように務める。
だから常に軍が先んじて軍事力を使って有利な立場を築こうとするのを抑え、日清戦争開戦の当初には、日本の陸軍の行動にこのうえなく大きな不利をこうむらせたと、いちいち例をあげている。
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もちろんこういうことを書いておくのは、多少はこれから後のいましめ、教訓になるかもしれないが、しかし、内閣も大本営も共にひとしく天皇のお考えをつつしんでうけたわまる組織であり、外交上の折衝に天皇が満足せずはじめて武力に訴えることになるのだから、開戦前に軍や政府の内部に異なった意見があることなどを書いては、世間の人は、政府・軍部を統一して指揮している元首である天皇の大権に疑問をもつことになる。ことに宣戦の詔勅と矛盾すると人びとが思う恐れがある。
三、改めて編纂する戦史では、わが日本政府は常に
平和をねがって一貫していたが、清国朝廷はわが国の利権を考慮せず、たとえ武力を行使し血を流してでもその野望を実現しようとし、彼、清国がまず日本に対して敵対行為を現し、日本がついにこれに応じなければならなくなったことが発端となって戦争になったというように書き、成果を見なかった行動はつとめてこれを省略し・・・。」
こんな欺瞞を連発する日本の支配者たちを放置してきた、我々国民にも大いに問題がありそうだ。