(その九)倭国=邪馬台国

倭建命(ヤマトタケルノミコト)の名は、熊襲健(クマソタケル)がその由来である点が、謎を解く鍵になる。
倭(ヤマト)に対して、熊襲(クマソ)というわけだ。
倭とは、和の語源であり、大和の語源であり、古代中国が日本のことを蔑称した名でもある。
中国の「魏志の倭人伝(ぎしわじんでん)」に、日本(邪馬台国)に女王がいたと記しているからである。
魏志の倭人伝(ぎしわじんでん)は、中国の正史の三国志中の「魏書」に書かれている東夷伝の倭人の条の蔑称であり、日本において一般に知られる通称である。
江戸時代の漢学者の中で『三国志』という書名を用いず『魏志』『蜀志』『呉志』などと称する慣習があったため、この通称が用いられた。
『三国志』の中に「倭人伝」という列伝が存在したわけではなく、あくまでも「東夷伝」の中に倭及び倭人の記述があるということに過ぎないのである。
従って、東夷伝の中に記された「東夷」の概念には当然倭人の事も含まれていると考えられ、倭人に関する条のみならず、東夷伝全体を通読しなければ意味がない。
中国正史中で、はじめて日本に関するまとまった記事が書かれているとされ、当時の倭(日本)に、邪馬台国を中心とした小国(中国語でいう国邑=囲われた町)の連合が存在し、また邪馬台国に属さない国も存在していたことが記されており、その位置・官名、生活様式についての記述が見られる。
また、本書により当時の倭人の風習や動植物の様子がある程度判明しており、弥生時代後期後半の日本を知る第一級史料とされている。
しかし、必ずしも当時の日本の状況を正確に伝えているとは限らないこと、多様な解釈を可能とする記述がなされていることから、邪馬台国に関する論争の原因になっている。