(その九)鼎のひとり

「藤堂はん!」
恵美子は心の中で叫んだ。
夢現の中には違いないのだが、リアルに思えるのだ。
遠くに行ったはずの藤堂が、身近に感じるのは何故なのか、皆目見当がつかないでいると、右側から、掠れた声で自分を呼ぶ声が聞こえた。
「恵美子!」
紛れもない兄の聡の声である。
『これが、いわゆる現実なんやわ!』
想いが夢の中から自分を否応なしに引き摺り出す。
「聡兄さん、なんどすか?」
居直った恵美子が聡の方に心を開いた。
現実を直視する女の性だから、春を売る仕事もできるのだろうか。
男にも春を売る仕事があったとしても、現実を直視できない男には耐えがたい仕事になる。
それだけに、女だけに春を売る仕事があった人間社会は幸運だったと言えるかもしれない。
「お父さんが、行方知れずになったんや!」
聡の話に心が揺れない自分に、底知れぬ恐ろしさを感じた恵美子だったが、聡の次の言葉にはにべもなく動揺した。
「お母さんも、一緒にいなくなったんや!」
夢現の中で、自分の所在を自覚できないでいた恵美子が、そこでやっと、現実の世界を自覚した。
「藤堂はんは、やっぱり、死んでしまはったんやわ!」
現実といわゆる現実との間のギャップは、いわゆる現実と夢との間のギャップよりも遥に大きいことに気づいたのである。
そこに聡がダメ押しを打った。
「恵美子、藤堂が殺されたこと知らんのんか?」
現実の中で最も聞きたくなかった言葉を、況してや、聡から言われたことが、悲しくもあり、悔しくもあった。
だが、恵美子は最後の抵抗をした。
「藤堂はんは、生きてはる!」
強く断言すればするほど、聡には強がりに聞こえるのだった。
哲学を学んでいる人間には、強がりは却って藪の中の蛇を突くことになるのを、洞察する智力を恵美子が持っているはずがない。
「お前の中にいた胎児が、すべて見抜いていたはずや!」
決定的言質のカードを切られた恵美子には、抵抗する力はもはや完全に失せていた。
「恵美子!」
過去の嫌な記憶が浮かび上がってくる。
「恵美子!お前が欲しいんや!」
恵美子の身体の上に覆い被さって、聡が叫んでいる。
「やめて!聡兄さん!」
「ああああ!」
『ああ!夢と違ったんや!もう死んでもええわ!』
恵美子は遂に諦めた。